幼いこどもが必死に耐えている姿に心を動かされてしまう。
与えられた役割を、必死に守るために、「先生、無理。やめたい」って言うのを我慢している。
キャパオーバーしてもやり抜いている姿に、僕はつい手を差し伸べたくなってしまう。
けど、「それ自分で選んだんだから、最後まで自分でやり抜きな」って突き放す。
偶然通りがかった幼稚園の運動会。
思わず足を止め、僕の小さい頃の記憶とリンクした。
高熱が出ながらも、幼稚園の運動会を最後まで走り回ったあの頃の記憶。。。
園長先生のおわりの話はつまらないから、先に帰って病院に直行したけどねw
きっとこの子も僕と同じなんだろう(と想像しているw)
途中でやめることはできた。
「先生、体調悪いから休みたい」って言うことはできた。
けれど、与えられた役割を最後までやり抜いてみたいって、幼心にもあったんだなって思う。
「それでも自分はやってみたいのか?」って、物心つく前から今日までずっと、試されてたんだなって思う。
やり抜いたら、僕みたいに2、3日寝込んでしまうことになったも、後悔はしないはずw
僕らは生まれた瞬間から、役割(才能)をすでに与えられて育ってきた。
だから、「それでも自分はやってみたい」というものがあれば、それだけで十分幸せなんだと思う。
「これさえあれば、自分自身でいられる」という役割に気づけていたなら、たとえ貧乏でも、ずっと一人で暮らすことになっても、その瞬間瞬間を幸せで満たされると思うんだ。
誰から言われるでもなく、強制されるでもなく。
ましてや、「こうすると簡単に稼げますよ〜」「こうすればモテますよ〜」に飛びつくのではなく。
「それでも自分はやり抜きたい」「それでも守りたいもの」があるからこそ、無条件に注がれ続ける豊かさを、少しずつ受け取る許可を自分にしていく。
受け取った分だけ、富として還っていることに気づけるから。