「イデア」というものが実在であるということは、哲学の祖と言われるソクラテス、プラトン以来、哲学の初めにあることである。

 

 これは、この変転きわまりない現象の中で、変転しない永遠普遍の実在に心の拠り所、認識の拠り所、知恵の拠り所を求めたのであろうけれども、そもそも、その思索する主体である自己自身も流転しているものでもある。


 考えというものも変転している。「吾思う、故に吾あり」(デカルト)という「吾」自体も、思索の過程において変転してゆくのである。故に、仏教的には、思索する「吾」の本質は、「空」であると言えるかもしれない。


 しかしながら、その「吾」の本質をよくよく振り返ってみると、それはまた、思索された真理を生み出した源であり、永遠なる意志である叡智界からの流出ともいえる「理念」の論述の源でもあるものである。


 このような理性的思索の本質とは、変転してゆく所にあるのではなくて、不変の真理性にこそあるのではないだろうか。

 

 思索する過程において、そこに一貫して示されている真理の生命は、まさしく永遠不滅である。


 永遠不変の真理を産み出すことこそ、真なる思索の本質である。それが変転しているかのように観えるのは、それは、知性の法輪が回転しているようなものである。

 

 このように、真理とは、真なる思索を媒介として認識されて、現象界に流出し、現実化するものである。

 

 故に、真なる思索というものは、永遠不変の真理を様々な角度から照らす営みであるとも言えるのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)