「永遠の今」というものは、遠くにあるものではない。今ここに、思索をすればつかめる実在なのである。実在生命なのである。
無意識の内に、吾々は、実在生命に触れて、思索を重ねているのである。相応の理があって、今の思索があるのである。故に、今の思索から、過去の理を推定してゆけばよいのである。
「報」というものは、偶然にあるものではない。過去の業が相応の期間を経て徐々に固まって果報として出てきたものなのである。
故に、善そのものはさらに積み重ねてゆき、悪しき果を結んでいる悪しき原因は、遡って取り除いていった方がよいであろう。
例えば、良書を読み思索をするということも、善因を積むということである。このような善因は、すぐには果報にはならなくとも、一定の時間を経て、必ずや、果報となって現われてゆくのである。
また、自己の善き想いであっても、相応の間、積み重ねられていったならば、相応の時間を経て、相応の果報を結ぶのは確実なのである。
結局の所、自己の境遇や自己の運命というものは、自己自身が創り出しているものなのである。故に、主体的にそれらを受けとめてゆけばよいのである。
たとえわずかずつでも善を積み重ねてゆけば、それは相応の善徳として果報を結んでゆくのである。
故に、自分の出来うる限りの善を積んでゆくことに心がけようではないか。その因果応報の理を信頼して、自ら善と認識する善を積み重ねてゆこうではないか。
そもそも、善について探究し、善について綴ること自体、積善である。
例えば、仏教の法理であっても、数千年の時を経て、現代にも新時代にも通用する法理が多くあるのである。そして、それらは今でも、多様なる思想の根幹の一つを形成しているのである。
それは自らの心においても応用実践可能な法理であり、また、思索の上においても応用実践可能な法理であることが多いのである。
(つづく)
天川貴之
(JDR総合研究所・代表)