また、悟りというものにも様々な態様がありうるのであり、それぞれの人が様々な過程を通じて道を悟り、やがて解脱してゆくのである。その過程は、それ自体が尊いものであり、そのそれぞれが、私小説ともなって芸術となり、真理全体のかけがえのない一部を形成してゆくものなのである。


 それ故に、人生という舞台において表現されたものは、全て尊重してゆくべきであろうと思う。それは、考える精神の成長の過程でもあり、その中には、人生の本質が現われており、本質を示現することによって、我々の生命はそれだけ深くなり、真に自覚がなされて、真理を認識してゆくのである。


 さらに、哲人によって思索される真理は、それが発見され、思索されてゆく過程そのものに光明があるのであり、また、そこに愛があり、智慧があり、希望があり、勇気があり、エネルギーがあるようなものなのである。


 このように、思索するという営み自体に意義があり、それは自己の姿を客観化して人々に示す契機ともなってゆくものである。


 我々人間は、思索する存在であるものであり、真理が真に思索されたならば、その思索された真理こそが、自己の精神を真に自由にしてゆくのである。


 大いなる解脱の悦びの中に、自己の精神史と他者の精神史を発見し、さらには、日本史の哲理と世界史の哲理を発見し、時代精神を発見し、世界精神を発見し、宇宙精神を発見してゆくのである。


 このように、我々人間は、あらゆる真理を、思索を通じて自らの心の内に獲得し、自らの思想の力によって結晶させてゆくことが出来るのである。
 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)