時空を超えて遺っている魂の輝き、精神の声というものの本質とは、一体何なのであろうか。
例えば、歌というものであっても、その対象となった恋愛関係が無くなってしまったのにもかかわらず、その歌は遺りつづけ、時を経て復活し、歌われ、愛されるということがある。そして、その歌の対象の限定を超えて、多くの人々に愛されてゆくということがあるのである。
このように、「言の葉」というものには、本源的に永遠普遍のロゴスのようなものがあって、不死性や普遍性をもともと持っているのではないかと思われる。
また、思索の集合体、思想の集合体というものも、一つの人格性を持って、本人を離れて、様々な分野において、様々な部分において、人々を感化してゆくということもあるのである。
このような観点から、真なる意味において本質的な人生を生きるということはどういうことなのであるか、そして、哲学者とは一体どういう存在であるのか、ということを改めて考えてみたいと思うのである。
哲学の本質とは、一つ一つの思索の過程そのものに意義があるということである。その思索の過程において、変わらない真理もあれば、変わりゆく真理もあると言えるが、一日一日、年輪を経ながらも、思索する統一体がある以上、そのようにして思索されたものこそが、その方にとっての真理であるのであり、これは、日々変転してゆきながら、より深いものへと止揚されていっているのかもしれない。
かの古代ローマの哲人セネカの言葉は、一見、普通の人生哲学を語っているように見えて、歴史に遺っていったのは何故であろうか。それは、一見、平明なようにも見えるが、実は文体は極めて洗練されており、それは、大理石の彫像のようなロゴスそのものであるのである。
(つづく)
天川貴之
(JDR総合研究所・代表)