では、自分自身の指導理性というものは、現象世界の自己と、どういう関係にあるのであろうか。

 

 これは、現象世界の法則とは違う世界の法則的真理なのである。カントの云うように、現象世界の因果律とは違う世界の叡智的実在なのである。

 

 しかしながら、かかる叡智的実在は、現象的自己に語りかけ、働きかけるのである。それは、カントの云う所の「定言的命法」の主体であり、道徳的立法をする主体でもあるものである。


 故に、アウレリウスの云うとおり、吾々は、常に吾々の内なる指導理性の声、導きを定言的命法として尊重しておかなければならない。


 確かに、現象世界の因果律も法則であり、真理であるが、現象は、やはり現象でもある。

 

 このような現象を超越する指導理性、叡智界というものは確かにあるのであり、それこそが不滅の実在であるのである。

 

 故に、吾々は、常に内在する叡智に対して心を向けておく必要があるのである。


 このような内在する叡智、指導理性は、天来のものであり、永遠不変であり、或る時は、思索の主体そのものでもある。真に思索している主体は、永遠不滅の指導理性であるのである。

 

(おわり)





 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)