真理には様々な側面があるものであり、古典的真理というものは、大海のようにして、様々な生命を養っているように思う。

 

 今までも広く多くの人々に愛され、魂を磨きつづけてきた精神は、これより後も、多くの人々に愛され、魂を磨きつづけてゆくことであろうが、改めて再読して、深く心を打つという真理があれば、それは、その真理が既に確かに自らの心の内に根付いていて、その自己の内なる同様の真理が共鳴しているということでもあろう。


 古典的良書の面白い所は、再読して飽きがこないばかりか、少し時間を置いて、様々な経験と思索を経て改めて接してみると、全く新たな真理に出会ったような強烈な印象を遺すことがあるということである。


 老子の言葉に「博き者は知らず、知る者は博からず」というものがあるが、たとえその数が少なくても、本当に良い古典的良書を魂の伴侶とすることが出来たならば、何度もその中から真理を導き出し、その度に違った角度から真理を導き出して、新たなる感動をもって、自ら主体的に真理をつづれるようになるものである。


 それは、どんなに現代の思潮が変わっても、決して失われることのない不動の定点となることであろう。まず、不動の価値を持つ古典的良書の思想的内実を定点とし、そこから現代の数多くの著作を俯瞰する習慣をつけておいた方がよいであろう。


 歴史の波間に耐ええた思想というものは、確かに運命の恩賜もあったかもしれないが、それは、その内に、それだけ普遍的で客観的な真理が、人々の徳と良心に響くものが遺っているからであると信ずるものである。

 

 絶えず古典的良書に立ち帰り、そこから現代の書物を俯瞰するということの重要性は前にも述べたことがあるが、それはまた、改めて、不動の自己の精神の要塞を創る上で大切なものであると思う。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)