そもそも、この「心の平静」というものは、一体、どのようにして得られるものなのであろうか。それは、穏やかな境地であろう。悩みと執われのない境地であろう。

 

 仏教の涅槃寂静の「静」の境地が比較的近いのであろうか。或いは、老子の「虚を致すこと極なり、静を守ること督なり」という意味での「静」の境地が比較的近いのであろうか。

 

 このように、限りなく静かな境地を築いてゆけば、あらゆるものを、「明鏡止水」の如く映してゆくことが出来るのであろう。


 「心の平静について」という論考がセネカの著作の中にあるが、この心の平静について考えるだけでも、一つの論文が出来ることであろう。

 

 そもそも、豊かな感情といっても、そのことによって心に悩みが出来て、執われが出来るようならば、本当には豊かな感情とはいえないのであろうか。

 

 その逆に、何があっても心が揺れない静かな状態を創ってゆくことこそが、実は、真なる豊かな感情を育んでゆく道となるのかもしれない。


 そして、このような「平静心」とは、一体どのような条件の下で生まれるのであろうか。自らの心の波を平らかにして、凪いだ湖面のような状態にしてゆくことは、随時、可能なことであろう。

 

 また、それは、老子を十節程朗誦する習慣をつけても、このような平静心は得られるであろう。「無為を為し、無事を事とし、無味を味わう」ということも、それを実践していれば、心を安らかに全う出来ることであろう。

 

 一言で平静心といっても、様々な個性がその中にはあるように思われる。


 例えば、エマソンの瞑想的「エセー」の世界も、大いなる平静心の顕われと言われなくもないだろう。

 

 さらに、ルソーの「新エロイーズ」の感情世界であっても、それもまた、平静心の顕われと言えなくもないのではないだろうか。その繊細で穏やかな感情表現は、ショパンのピアノ曲を想わせるものがあるのである。

 

 私達が「ロマン」的であると呼んでいるものも、本当は心の平静さから生み出される産物なのではないのだろうか。

 

 (つづく)

 

 

 

 

 

 

   by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)