何故に、人格の根底に、また宇宙の根底に、圧倒的に善なるものが認められるかといえば、我々が、善を善として先天的に悟得する根源に位置するものが、本来の神仏、本来の法則としての神仏であるからである。

 

 仏教においても、仏の真なる御姿は法身であり、真理そのものであると述べられているが、この法身としての神仏が無ければ、仏教的道徳の根本原理、形而上学的原理が成り立たないのではないかと思う。

 

 法身という概念があるからこそ、人格的でありながら、人格的なるものの限界を超えた超越人格としての仏が成り立つ訳であり、超越人格としての仏があるからこそ、全ての生命、ありとしあらゆる生命の営みの根底に、仏の働きを認めることが出来るのである。

 

 故に、大宇宙の根本を統べる真理と、人心を統べる真理としての仏教道徳は一なるものであり、同じ生命、同じ光明をもっているものであるといえるのである。


 神と仏とは、根本精神は一つであり、名称が異なっているだけで、真理の別名に過ぎないのであるから、キリスト教や、神道や、ギリシャ哲学等の神と称される分野においても、同様のことが言えるのである。

 

 

 (つづく)

 

 

 

 

 

  by 天川貴之