♪ジモティWRITERの北京都紀行(^^ゞ PartⅠ  | ☆えすぎ・あみ~ごのつづりもの☆

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ひさしぶりのUPです。

ぁ、いつも「いいねグッド!」やフォロースターありがとうございます♬

 

 

長らく Instagram はお休みしてるんですけど、ぶらぶら町歩きの写真がけっこう貯まってまして。

 

順番にPhotos付きでご紹介できたら、と思います。

北京都 (舞鶴市、福知山市、綾部市、宮津市、京丹後市)の

 

 

わりと最近に「社会保険年金事務所」に用事があって、

田辺城跡へ、行ってきました。

 

まいづる市役所所在地が田辺城門跡なんです。

ここで、パスポート申請した記憶があります。

 

 

 細川藤孝(幽斎)が隠居後に、関ヶ原合戦の前線に立つ嫡男忠興の後押しとして、約2ヶ月間も籠城した、田辺城です。

 石田三成側西軍の何万もの兵を引きつけておいた事で、東軍家康側に貢献した闘いでした。

 

 生き延びたまま開城に至ったのは、ひとえに細川幽斎が唯一の古今和歌集の伝授を出来る人物だった故。

 朝廷の天皇よりの勅使で「死なせてはならぬビックリマークただ独り、古今伝授できる者が没してはならぬビックリマーク」と、西軍にお告げ。

 武将達の戦いにお公家様が口出し嘆願したのです。

 

 幽斎に計算が有ったかは別として、公達に存命を乞われるほど、細川幽斎は文芸に秀でた領主だった証です。

 生涯側室を置かなかったのは、麝香(じゃこう)夫人も芸能文智を深く嗜む女性だった故、寄り添い続けたおかげですね🎵

 

 

 

 

 

 長子嫡男の忠興は、負け知らずの武闘派として知られていますが、熊本藩主を隠居した後、「細川三斎」の名で『利休七哲』らしく茶人として生きています。

 また、丹後宮津城主の頃も、日本三景の『天橋立』へ京の都人(みやこびと)や名将を招いて、歌会を開いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーということで。

 

Ameba更新をご無沙汰ちゅうに、戦国時代の連載第2章も

ここまで↓↓↓ 改訂版が進みました。

 

 

 

 

 

 

第4章も、始まっています。↓↓↓

 

 

 

 

 

こちらの現代ミステリー小説も、よろしければ<m(__)m>

   ↓↓↓

 

 

 

 

 

 

ーーー以上、あみ~ごの近況紀行Part1でした。