丹波国氷上郡の赤井・荻野氏の城郭をみていると、ある共通点が見えるような気がしていました。
今回清書したこの穴裏峠城も、そうかな?と思って行ってきました。
氷上郡(現・丹波市)の旧・青垣町と天田郡(現・京都府福知山市)の境には幾つかの峠がありますが、芦田氏の本城である小室城に直接至れる穴裏峠を抑える為に築かれたのだと思われます。
この穴裏峠、いまでこそトンネルがあるので道があるのはわかるのですが、隧道がなければそんなに鞍部になってないのです。ほんとに使われたのかなぁ?
まあとんでもない山奥で、ひとりでは怖いので但馬の谷さんをお誘いして行ってまいりました。
東の県道から南を回って登ったのですが、小室城と同じくらいはしんどかったっス。
で、縄張図を摂ったのですが結構緩く、高山ゆえの崩落なのか元々の仕様なのか不明です。
峠を監視する為の見張場程度であったのかもしれません。
築城者も、芦田氏なのか赤井氏なのか、はたまた他勢力なのかはわかっていないようです。
縄張図を摂っていると別の来訪者がいらして驚いたことは当日書いたとおり。
(ちなみに彼は南西から登ったらしい。この二週後、鐘ヶ坂金山城でも偶然お逢いすることになる。)
おおきくⅠ(東郭群)とⅡ(西郭群)に分かれていて、先行図ではaに土壇があるように描かれていましたがぼくがみた限りはそんな風には見えず。
逆にⅡ郭に相対するcに土壇があります。だがしかし、cよりもⅡ郭のほうが高く、他の氷上郡内にある城の土壇とは異なっているようにみえます。これをどう考えるべきか…。
城域の東端bと西端dには土塁があり、黒井城や余田城にみられる「先端土塁」と評価できるのかどうか悩ましいです。
また尾根筋のeは馬出しのようにもみえ、曲輪面の緩さとはべつに凝った造りのようにもみえるが気のせいのようにも思えます。
シンドイ思いをしたのに悩ましい気持ちの残るお城でした。