曲輪考 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

6月24日の ZOOMお城会【諸説あり】は 曲輪(くるわ)

 

城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称。「郭」とも書く。 ウィキペディアより

Wikipedia先生にはいろいろ賛否があるので、ぼくのお城バイブルとも呼べる

探訪ブックス[城10 城郭辞典] 1981 小学館 より引用

 

「それぞれの役割・機能に応じて城内で区画された小区域をいう。 近世の城郭でいう本丸などの「丸」といわれるのは江戸時代のことで、中世・戦国期には曲輪・廻輪といった。 創築当時の大坂城には丸は使われていないが、天正末から文禄ころになると 山里丸・西の丸の名がみえる。 一説に丸の字が使われるのは軍船との関連が強いといわれ、朝鮮渡海前後から丸の名称にかわっている。 機能を現す場合は曲輪(信仰や用途など)」

 

改めて読み返してみると、覚えていないことも多い。

特に「曲輪」が16Cまでに使われていて、朝鮮の役から曲輪に替わり「丸」が使われていたなど。

 

歴史群像シリーズ 軍事分析 戦国の城 で、西股総夫先生はこう述べられた。

 

「 堀・壁(へき⁼切岸の意)・土塁などの遮断線によって区画された空間

  遮断線がなければ曲輪ではない

 「丸」の呼称は山のピークを指す語に由来するようだ・・・?

  戦国期城郭の場合、曲輪の伝承名とされるのは、ほとんどの場合後世の附会 

 (安土城や越後春日山城の各曲輪名)

 腰曲輪(腰郭) 主要な曲輪から一段下がった斜面に付随している小さな平坦地 辺縁を壁にしていないものは腰曲輪とは認められない。」

 

ZOOMお城会のなかでは

「朝鮮の役以降『丸』が使われたのは確かだが、山の頂上を『maru』というのは朝鮮半島なのでは」という話が!

「丸」という名称が、朝鮮の役での船を現す「丸」なのか、朝鮮語の「maru」なのか、はたまた朝鮮の「maru」がこの時期の日本語から入ったものなのか~

後進の研究に期待しましょう。

 

で、上記にあるように中世では城郭の小区域は「曲輪」と呼ばれていたのは確かとしても、その名称は伝承によるものが大きいので、論考などでは【仮称】を使うことが多いですしぼくもそうしています。その場合、「丸」「曲輪」は使用せず、「郭」 を使っています。

またその場合、「郭」の名称としてアラビア数字(Ⅰ・Ⅱ・Ⅴ・Ⅹなど)を使っています。

 

それについては賛否があるようですが、とりあえず慣例に従っております。

例示ということで、ぼくのここ数年の推し城・丹波国氷上郡 穂壺城を使いました。

伝承名すらないため例として勝手に名前を付けています。

たとえば 「郭Ⅰ(主郭)」は「本曲輪」「本丸」

     「郭Ⅱ」は「南二ノ曲輪」=「南二ノ丸」 となるでしょう。

郭Ⅷは、戦前まで神社が祀られていたといいます。現在、穂壺城の南のピークに妙見神社があり、妙見=北斗信仰であることから、高見城塞群の最も北にあるこの神社跡が妙見社であった可能性を考えました。(別に稲荷でも天神でもいいのですがね。仮称ですので。)

この場合「妙見曲輪」という呼称でもいいでしょうし、17C以降であれば「妙見丸」と呼ばれることもあったでしょう。

 

問題は国道175号線の拡幅で破壊された郭Ⅹです。普通にいえば「腰曲輪」でしょうが、ここでは破壊に伴う調査で冶金のあとがあったことが確認されています。

すなわち「鍛冶曲輪」なんて呼ばれた可能性もあるかなと。

 

で、それを「~丸」と呼ぶ(腰丸・鍛冶丸)ことは想定しがたい(=聞いたことがない)のです。

そこらへんが「丸」と「曲輪」の用例における境目なのかな…と思ったりしています。

 

このあたりはぼくの感覚的なものなので、衆目を納得せしめるために更なる用例を集めて、論として纏めることができれば、なんて思っています。