播磨国・小寺氏の被官から織田氏~羽柴氏へと鞍替えし、宍粟郡山崎~豊前中津 へと移封され、筑前名島で国持ち大名になった 黒田官兵衛孝高
博多に隣接した福崎に福岡城を築いたうえで、豊前豊後国境に六つの支城=六端城 を築いた…
といわれております。
歴史群像特別編集「戦国の堅城Ⅱ」より
ところが…この六端城 を預けられた重臣六人+1(後藤隠岐出奔後追加)のうち、黒田氏二代めの忠之まですべてが黒田家を離れたということを驚きとともに聞いたことがあります。
調べてみると、支城主(城代)七家に加え、草創期に一万石以上を知行した一族含む重臣五家
計十二家のうち、三代忠之の在世中まで残っていたのは、黒田又佐衛門家のみであったと。
黒田又佐衛門はもと加藤氏で、伊丹有岡で荒木摂津の家臣だったころ、囚われの黒田官兵衛の世話をした縁で取り立てられた人です。
上記「戦国の堅城Ⅱ」において、木島先生は
家臣の権威を削ぎたい大名家と守りたい支城主との綱引きの結果である
と考えているようですが、以前書いた黒田家に当主からの偏諱が極端に少ないことを鑑みるに、これは黒田家独特の理由があるのではないでしょうか。