一昨日、初訪問となった山陰の雄・尼子氏の本拠である月山富田城(島根県安来市広瀬町)
ここは二度の廃城があったことを思いました。
尼子を逐ったあと毛利氏重臣や一族が城代となりますが、天正末からここを任された毛利一族の吉川又二郎は、ここから米子に移ります。水陸の交通を考えてのことでしょう。
(ただここで富田城が廃城になったかはわからない)
毛利氏が破れた慶長五年戦役で、吉川氏が岩国に移ったあと、出雲に入った堀尾帯刀先生は、ここを本拠にします。(今残る遺構はこのときのものであろう)
が、結局亀田山に新城(松江城)を築いて移ります。
月山富田城が喋れたらこういうでしょうね 「おまえも出ていくんかーい!」
なぜ富田城を放棄したかということを考えたとき、まあ、たぶん
城域が広すぎて守り辛い
ということになると思うのです。
ところが新城の候補・洗合山も、丘がデカすぎて断念。
今の松江城がある亀田山がどうかといえば、北半分(上図の右)は放棄されたような構造になっているようにみえます。
図の中央にある馬洗池の西の虎口は下画像のように厳重なつくりです。内堀の内側でもここより北を区画しようとする意図ではないかと。
月山富田城が喋れたらこういうでしょうね 「あまり変わらんやん」