馬出 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

先週の「お城好きZOOM会~諸説あり」 お題は、『馬出し』

 

図面上も、実見して撮影などしてもカッコいいパーツだけに、ぼくもプレゼンしようと史料を漁ったのですが…

定義が揺れている!

「馬出し」 とはこういうものだ~というしっかりした説明をしているものがないのです。

2018年の中世城郭研究会セミナーのシンポジウムが 「馬出を考える_定義と分布_」 だったのですが、資料を見ても定義についてまともに書かれていないのです。まあ思い返してもそういった議論はなかったと記憶していますが。

 

で、まあ、馬出しで思い出したのが、豊後府内城の北ノ丸だったので、津城~聚楽第~広島城~高崎城~弘前城~会津若松等の馬出し状遺構の図をトレースしたりしておりました。

 

 

すると、当日伊勢方面を城訪問のレジェンドお二人が廻っていて、「伊勢上野城に織田信包が入り天正八年に上野落城後津城に移った」と書かれていたのです。

 

とすると、津城の西ノ丸&東ノ丸は上記各城のなかでは古いほうなのではないか…

 

あれ、まてよ、尾張清須城にも馬出し(南郭)あったよなぁ…で、桶狭間陣城群には馬出し状のものがたくさんあったことに思い至ったのです。

 

つまり、織豊系城郭の馬出しは、後北条や武田とは別系統に尾張から派生発展をしたのではないか…

 

これに、参加してくださったNさんも賛同していただきました。かれは筋金入りの甲斐武田ファンなので、Nさんの賛同を得たことは嬉しかったです。

 

無論清須城の南郭や、津城の西ノ丸・東ノ丸が創建後 (徳川史観にどっぷりの人は 馬出し=徳川城郭=藤堂和泉) の増築と考える見方もあるでしょう。(しかし、津城は元々湿地の城であるため、主要部の広大な濠があるのであって、そこに後付けで東西の郭を造ることは難しいと考えています。東西郭を後の造営とするならば、当初は本丸だけが広大な濠の真ん中に浮かんでいたことになる。これは考えづらい。)

 

で、まあ、一応の定義付けをしたところそちらで盛り上がってしまい、事後Twitterで 「馬出しは定義付けすべきでない」 と呟いたところ、「定義はしなきゃダメだろ」 と某所教育委員会の先生からお叱りを受けてしまいました。

 

それについては、思うところもありますのでまた書こうと考えています。