北面甘 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

さて、福山城

わざわざ出掛けたのは、ずっと不思議に思っていたことが検討される可能性があったこと。

「福山城は、高石垣・連続枡形・横矢懸りなど正面〜側面の厳重な造りに比べ、北側は頗る甘い」 というもの。実際に幕末、攻勢に転じた長州軍が襲来したときもこちらから軍を進めたようです。

 

北側には内堀はおろか外濠もなく、北側の外濠の代用になると思われる吉津川には「川はば廿八間 かち渡」 と正保図に描かれています。 また天神山や小丸山といった丘も放置したに近い状態。

正保絵図*右が北

ぼくは8月に行ったときに考えていたことがありましたが、ここに挙げるまでには至りませんでした。

 

パネラーで、尊敬する研究者であらせられる木島先生は、「財政難とか幕府の指示で未完成だった訳ではなく、この状態が完成形」 と述べられました。

 

ぼくも以前はこの城の北の手薄さは未完成などでは、と考えたのです。が、8月にいったときに考えが変わりました。

この城はこれでいい…と、少なくとも築城の指揮を執った水野藤十郎は考えていたのではないか、と。

藤十郎のち日向守勝成は、徳川ナイフのイトコではあるが若かりし頃から各地を放浪し、槍ひとつで各大名家を渡り歩いたイクサビトであるから、築城にもイチ見識あったでしょう。

 

正面は近世城郭の技術で固めたが、北側は自ら若い頃運用し慣れた中世城郭の様式を使ったのではないでしょうか。

またこれはボクも思っていたのですが、“備陽史探訪の会”の田口会長さんが言われました。

『七人の侍』での科白 「城には弱点を装って敵を誘う場所がある」

 

根拠の無い事をノタマウのは研究者としては良くないのはわかっていますが。

書かずにはおれないっす。