ということで、城郭セミナーの開催地 吉田城
田原から帰って早めに城址散策。 鉄櫓下の豊川沿い画像下右に兵庫県某町担当者Oさん発見
お話していると城郭研究界の生き神様、M先生が。「金柑丸 (本丸東の曲輪) は見事な馬出だねぇ。二の丸からの横矢も見事」 とお話を伺っているとK大K先生、H市T先生などお歴々各氏が到着。
永正二年に牧野古白が築城したというのが定説。以後豊川と東海道の結節点として機能していたのでしょう。織豊期には東参四郡十五万二千石の主城として、池田三左衛門が入城し改修。主郭部を総石垣とします。鉄櫓下の古い石垣は田原城と同じ頁岩(チャート)が主に使用されています。
↓主郭内部や豊川沿いの石塁は花崗岩が多いようで、刻印も多数みられます。、
本丸とその北の川沿いには三重櫓3、二重櫓2、二の丸にも三重櫓がありましたが、土台の櫓台ごと無くなってます。 ↓鉄櫓にある主郭の模型
何年か前に市役所建設の際に発掘が行われ、埋められた堀も発掘されたようで、何度かの改修を受けたことがわかっているようです。今年話題になった石垣の発掘は鉄櫓西下だったようですが、当時のプレス発表ほどは情報がなく残念でした。
で、中城研のMさんも復興櫓を 『入道櫓』 といって指摘を受けていましたが、昔はコレ『入道櫓』でしたよねえ・・・