若狭白石山 | 根多帖別冊 by おしろまん

根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

 二日は、訪城予定地が東若の三か所と西若の一か所で、東若三城に時間をかけ過ぎ、最後の予定地である白石山城の麓、若狭和田駅近くに着いたのが3:30pmでした。

 これは無理かなぁ~と弱気になるも、国吉城歴史資料館の先生が言われた

 「あれは織豊期の石垣でない可能性もあるかも」

 というお言葉を確かめるため折れる心を奮い立てて登りました。

 そもそもここは、10月にとある場所で、石垣のある城ということをお聞きして興味を持ったのですが、先の国吉城の講演会で中井均先生が、ここの城の石垣づくりの喰い違い虎口について話されたらしいです。

 ところがこの白石山城から直線距離で3kmしか離れていないところに大飯郡の拠点城郭であるとされる高浜城があるのです。

 国吉城歴史資料館の先生もその兼ね合いからここに織豊期の城が存在するのは不自然と考えられたのではないでしょうか。

 若狭には後瀬山城に後世築造と思われる石塁があることですし…

 が、まあ百聞は一見に如かずです。

縄張

 ぼくが見た限りではこれは確かに織豊期の石垣です。後瀬山城の石垣 もういっちょ と材質・積み方とも似ています。おなじ後瀬山でも北側の疑惑の石塁とは違いますので。

主郭北東の石垣
 ↑主郭北東の折れを伴った石垣 縄張図Bの左下

 石垣はおもに北と南に分かれ、北は “喰違い” 或いは “桝形” 虎口といっていいでしょう。

 ここの地山の石は古生代ペルム紀泥岩なので、石垣の石材もこれでしょうか。
この白っぽい石垣が白石山城の由来だったりしませんかね。

 南は天守台といっていいのではないでしょうか。穴蔵のような土塁も廻っています。画像↓縄張図A

天守台

 規模こそそう大きくないですが、コンパクトにまとまったイイ城です。

 南東尾根にも曲輪があったかもしれませんが、仮称天守台(図A)でアオダイショウ君に遭遇してしまい、時間も下がったことから確認には至らず。無念です。

遠望

 北西より白石山(中央やや左のピーク)、手前の丘は和田粟屋氏の和田城…だと思う(未踏)