若歴史 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

十時摂津のことをを書いて・・・

何故彼等 (立花家主従) は江戸にいたのだろう?と考えた。

後藤又兵衛は京周辺、大坂や播磨に居たとする説もある。 長曽我部宮内少輔は京、真田安房守・左衛門佐親子は紀州九度山

毛利豊前は土佐・・・いずれも大坂周辺にいて、一朝有事の際はいつでも風雲の錦城に飛び込む準備をしていたと言えないことも無い・・・

また徳川家も、それを好機としてこれらを根絶やしにしようと考えていたのではという仮説を 以前書いた。

そんななか、同じく慶長五年に領土を失った立花家が主君と主だった家臣で江戸に居る・・・

生活に困窮した元大名が、何千石も食んだ重臣に托鉢をさせながら?


つまり、肥後・加藤肥後守に厄介になっていた立花主従に、徳川将軍家からスカウト行動があったのではないか?

それでわざわざ、大坂 (関西) を通り越して江戸に行った。

来るべき東西戦において、立花家を敵に回すことを徳川氏は回避しようとしたのだと考える。

上記、関西周辺に居た 十把一絡げ 方々とは違った扱いであったと考える。

ぼくは、福島佐衛門太夫か、もしくはこの立花佐近将監が、大坂城に入ったらどうなったろうという『歴史IF』 を考えたかったが・・・

上記を鑑みるに、それが実現した可能性は全く無かったといっていい。

同時代人にも同じことを考えた人がいたらしく、立花飛騨 (=旧・左近将監) に直接訊いたらしい

「あなたは大友家臣であったのを豊家直参大名にしてもらって、慶長5年にも西軍に附き、徳川から改易されておきながら、このたびの役 (大坂の陣) には徳川に味方するのですね。」 と。

それに飛騨はこう答えた。

「豊家から受けた恩は果たしたっちゃ。そげーしたけん、自領を失くしたんやねーかえ。いまは将軍家から領地を貰ろーちょんのやけん、徳川に附くんがアタリマエやねーんかえ?」