鉛瓦 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

根多帖別冊 by えすくおやじ江戸のクリエイター・・・だったかな、日曜日の夕方の日テレ系の特番。この時間だから再放送であろうが。

 江戸城の天守を築いた中井大和守の工夫が紹介されていた。
ナビゲーターは栗山千明さん。⇒画像

 大和守がノンベエだったのが笑える。本多佐渡も好々爺であった。まあ、一般向けだとこうなるのであろう。
根多帖別冊 by えすくおやじ豊臣大坂城天守のほぼ倍の高さの天守を築くのに従来の土瓦だと重すぎる。そこで大和守が考えたのは木に鉛板を張るという方法であった。

いちじ流行った 『構造計算』 という概念がこんなところで使われている。

それにより、大坂城の漆黒漆の外観に対して、壁から瓦まで白亜の、高さ45間という従来にない天守が江戸の町に出現した・・・というもの。

根多帖別冊 by えすくおやじ 当時の江戸城天守は今の天守台のある場所から南に150mの位置、大手門から直線で見える位置にあったという。そこに天守台からあわせると80mの高さの天守が聳えていた・・・というたいへんキャッチーな考証である。おもしろかった。

まあ、なぜいまの天守が今の位置になったかという考証とか・・・それに家康の天守は画像のような層塔型ではなく連立式の望楼型だったのではないか。まあいいっか。

家康の頃の江戸城本丸 (たるるーと君とは無関係である、念のため) は、今より複雑で北の丸に接している部分は独立した “北出丸” 或いは “北帯曲輪” であった。丘陵続きのウィーク・ポイントであるここの縄張に技巧性を求めるのは当然といえる。そこに連立式の天守とくれば今の縄張よりとんでもなく複雑かつ戦闘性に富んだ城であったことであろう。

ぼくが思うに、泰平の世となり城の技巧性より、本丸自体の広括さを求めた。その広さを欲したのは 『大奥』 の存在であったのではないか。