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夫と死別しました

夫と死別して胸にわくさまざまな思いを
言の葉にしておこうかと思うようになりました

桜の花と共に飛んでいってほしい空の向こうへ 

義母は昭和はじめに、東関東で11人兄弟の2番目として生まれた。

 

当時は地方も宿場や農産物の市場でにぎわいがあり、その一家は

 

商売で生計をたてていたが、周りと同じくらい貧乏だったらしい。

 

2つ違いで兄弟が次々と生まれ、商売をしているおっかさんは忙しいから、もちろん上の子たちが下の子ぼ面倒含めて働いて暮らす。

 

背中にうまれたばかりの赤ん坊をしょわされて川に落ちて赤ん坊は亡くなった。夫と同じ名前だった。その下の兄弟は養子にだされた。

父の仕事の関係で一家で満州にわたることになったとき、女学校に言っていた義母は、その祖父と暮らしていたままかかさんのところに

一人でおいていかれたんだと。

 

そして戦争が終わったら、狭い家に10人以上の一家でくらして

ひどい目にあったんだと、いう。

 

おいていかれるのもダメ、帰ってきてもダメ、。

 

こんな生存競争の中で義母が生き抜いてきた方法、

「私は何も知らないよ、できないよ、わからないよ」と主張すること

だったみたい。最後はそれに「忘れちゃったよ」がついてたけど。

 

はじめは真に受けていた私だったが、真に受けて真剣に提案しようもんならカウンターパンチをくらうので、ああこれは口だけかと

わかったのはおろかにもだいぶたってからだった。

 

何かと口出し手出しする叔父もいたし、温和な義父は義母の不平不満の嵐がひどくなると「お前は黙ってろ!」と怒鳴るのだった。

 

あの時代の女の精一杯の生き方だったと今は思う。

そしてその義母の決まり文句にどうしてこうも腹がたつのか

私の方にも原因があった。(つづく)