マチネポエティクを代表する詩人の一人、のちに小説家としても活発に活動する中村真一郎の作品から。

Idée
香り溢れる闇のしじまを、
何思ふなく沈んで行つた。
めまひが湧いて泡が光つた、
星影揺れる夢の波間を。

薄氷破れる想ひ出の底、
寄り添ひ眠る生物の群。
静かに眼覚め、告知の葉ずれ、
大気の歌に耳澄ますーーどこ?

やがて明りが流れ始める、
無垢の鳩が空に向つて、
漂ふ花を魚が追つて!

そこに「私」が泳ぎ眺める、
水平線を掻き消しながら、
知らぬ世界を驚きながら。……


※マチネポエティクは、日本語の詩における形式美を追求しようとした1940年代の青年たちの文学運動の一つで、特に詩においてソネット形式、脚韻を踏んだ作品を多く発表した。これもその一つ。

 現代詩を読む会第2回の第一部「1940年代の詩」では、1949年10月に発表された、鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」という詩をメインに扱おうと思っています。

 本文は前項で紹介した『戦後代表詩選』(詩の森文庫、思潮社)に収載されていますが、インターネット上でも多くの人がアップしているので、読むことができます。例えば、↓。

 時々誤字があるサイトを見つけますので、ご注意ください。

 

 行き場のない男女が出会ってしまい、波止場の船を繋いでホテルにしている連れ込み宿で一夜を過ごすが、性的感興よりも希望の喪失しか見えてこない。男は結局自分のことにしか興味がない。

 男女の関係性の稀薄さと、男の単独性が強調された、孤独な作品だと思います。参加者の皆さんと、意見を交わしたいと思います。

 

 

 第2回の第一部「1940年代の詩」では、テキストとして『戦後代表詩選 鮎川信夫から飯島耕一』(詩の森文庫、思潮社、2006)を使います。お持ちにならなくても結構です。鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」、中村真一郎「Idee」についてふれます。他に三好達治の戦中の詩を紹介します。
 今後しばらくこのシリーズでは、この本に収録の作品を中心に読んでいこうと思います。思潮社のサイトでは在庫があることになっていますが、Amazonでは新本はないことになっているようです。hontoではあるようです。
 いくつかの図書館を検索してみましたが、あったりなかったり。

第1回読書会では取り上げなかった作品ですが、『する、されるユートピア』の冒頭に置かれた「川をすくう手」についての、上念のメモを置いておきます。

■川をすくう手
 教室に大勢の生徒がいるのに、孤立感、孤島感があるということ。それは自分の外側に対してひんやりした感じを持っているということではないか。この第一段落を、絵に描いてみたら、とても印象的な作品になるだろう。自分のいる島がきれいならとは言っていないことからも、この主体の心持ちがよくわかる。そのわけを、第二段落以降でとつとつと断片的に語っていく作品。
 封筒のことはとても具体的なので、ちょっと驚く。きれいな島からの落差がある。だから、第一段落の気持ちが、リアルで切実だということがわかる。島から一人ずつが入れ替わりで封筒を受け取りに行くことを想像すると(他の島の人は受け取りに行かない)、本当に「きれいな島ならいい」と思う。
 いきなり景色が変わって保健室に移る。主体が保健室通学者であるらしいことが想像されるが、それについてはふれられていない。あまりそのことを主体は気にしていないか、気にしてほしくない。この段落の最後で「また会える」と言っているのは、誰にか。次の段落からすると、母にか。
 具体的な地名が出てくる。母親が入院しているという事実もわかる。そのことから少し意識をずらせて、手すりの汚れについての感覚や売店の観察がクローズアップされるが、これは本当に気になっていることからあえて気を逸らせているのではないかな。と、守られるべきだった、笑ったっていい、という気になる言葉が続く。
 主体は見舞い客というよりは家族なので当事者性が高く、見舞い客の子供のような無邪気さは、年齢的にも、ないのだろうが、パタパタ言わせているのが楽しそう?で笑ってもいいような軽快な音だということを認識している。自分はあの子供のように(保護者によって)守られるべきだったのに、皮を剥がれて寒空にさらされているように、何物にも守られていないと認識している。もう無邪気に笑うような存在ではありえないことを、痛惜しているようだ。
 武庫川沿いに病院は多い。大きいから見えるというほどなら市立中央病院(6階建て
)も見えるのかもしれないし、西宮市内だけでも関西労災病院(10階建て)、兵庫医大病院(13階建て)が大きい。
 いつか失くすと認識しているのは、命なのか、若さ(元気さ、速さ)なのか、いずれにしてもそれが失われることを認識しているというのは、あまり普通のことではないように思う。彼の傍らに、死や衰える身体というものがあればこその認識だろう。そして彼は泣いていた。泣いていることを知られないために(他人にも、そして自分にも)階段を全速力で駆け下りたのだということがわかった。
 泣いているのは、母の病気のせいだと考えるのが早道だろう。が、そんなに直線的ではないかもしれない。母の病いという現実に直面していながら、向き合わずにいたり、受け入れようとしなかったりしている自分(かどうかはわからないが)に対する苛立ちも混じっているかもしれないし、何もできない自分(と思っている)に対する腹立ちかもしれない。
 同じ道…何と同じなのか、わからないが、いつもと同じということか。新幹線を見に来るというのは、一般には西宮市上甲東園の山陽新幹線記念公園。労災病院や兵庫医大病院より上流にある。あまり拘る必要もないが、家よりも下流ということかもしれない。それを言えば、新幹線記念公演は線路を見下ろすので、橋を見上げるという形にはならず、全体をフィクションと考えないと辻褄が合わない。いずれにせよ、母との回想があり、過去と現在と待ち構えている近い未来が頭を行き交う。次は、ふいにというのは直接的には新幹線のことだろうが、次の事態ということとリエゾンしているから、次に今日の病院のことを思い出すことになる。視線が次々にあちこちをさまよっている。あの小さい窓から外を見て眠るのは、母か。とすれば、初めて母の視線が現れたというか、彼が母の視線で世界を見ているということが示された。
 消えていくものとは、何を指しているのだろうか。母のことだろうか。そんなに深刻なの? それとも、一般的に人はということ?消えていくなということがわかれば、その消失点がわかる、見えるということか。母のも? まだ泣いている気がする。

 平気な人たちと僕との対比。僕はまだ走っている。その速度と時間の感覚。一つのセンテンスの中に二つの状況が架け橋しているのが面白い。僕は平気じゃないようだ。なんとかしてやれないかな。

 タイトルの「川をすくう手」に返る。すくうは、救う、掬うと並べれば、後者だろう。川を掬ってしまうのだから、とても大きな存在かと思われるが、手と言ってもギリシャ悲劇の「神の手」デウス・エクス・マキナとは違って、超越的な存在とは思えない。母かとも思わないでもないが、母と僕をめぐる状況を掬い取るのだから、母の手というのではないとも思う。わからない。

 学校から病院、そして道と、場所が変化していき、通して流れている僕の感情は実は一貫しているようだ。強い作品だと思う。

 

(写真は兵庫医大病院)


 

 現代詩を読む会第1回は、2023年5月13日(土)に開催、地元西宮出身で、今年の芥川賞を受賞した井戸川射子さんの第一詩集(中原中也賞受賞)『する、されるユートピア』を取り上げました。
 参加者はZoomで1名、現地(西宮市大学交流センター)で主催者2名を含めて7名。まず自己紹介、若い頃に惹かれていた詩として立原道造、中原中也や上田敏、リルケ(マルテの手記)などが挙げられ、自ら詩作をしている方、俳句や小説を書いている方、高校の国語教諭として教材研究を重ねてきた方、小説はよく読むが詩はあまり…という方など、それぞれの詩や言葉との関わりをお話しいただきました。
 続いて、各人がコメントしたい作品を2編ずつ挙げていきました。標題作の「する、されるユートピア」3、「川をすくう手」2、「はだしになってもないの、根」2、「ニューワールド」2、「立国」1、「INRI」1、「どの表面も、反射する膜」1、「発生と変身」1となり、「する、されるユートピア」「はだしになってもないの、根」「ニューワールド」の3編について、話し合うことにしました。
 話し合われた内容、言葉に、上念の解釈や補足を自由に加えて、以下、第一回の記録とさせていただきます。洩れも逸脱もあるかと思いますが、雰囲気の一端はおわかりいただけるでしょう。

■「する、されるユートピア」
 Windows7という単語が出てきて親近感がわいた。他の作品でもネットカフェとかインターネットのことが出てくることがあり、こういう具体的で身近な言葉を出すことの効果を、井戸川さんはかなり意識しているのではないか。
 無人探査機というものから、村上春樹の「スプートニクの恋人」を思い出した。コミュニケーションの方向、不安を示唆するメタファとして効果的であり、宇宙の虚空に向かって信号を送るというイメージから、デタッチメント(無関心、分離・疎外された、孤立・孤独)がスタイリッシュに表わされている。
 「思い出は言うごとに上達して」という行から、言語化=詩作という行為についての矛盾や葛藤、相対化が見られるのではないか。
 また、文字で読むのと、詩人自らが声に出すのとではずいぶん印象が異なるのではないか。「ムジンタンサキ」という言葉など、詩人本人の声で聴いてみたい。
 この作品は人称によって編まれるはずの関係性を十分に言語化できないという葛藤が描かれているように思われ、無人探査機自体が大きな換喩として生命体のように受け止めることもできるのではないか。現象を深めるのではなく複数組み合わせることで、宇宙のような空間の中での豊かさ、広さが変容していくような楽しさがある。
 一方で、全体にこの詩集についてはあまり揺さぶられることがなかったという指摘があり、それについて、現代詩は抒情を否定することがベースにあり、近代詩に言葉のリズムや音の快感があるのとは対照的で、イメージやその重層を暗号化しているから、抒情的感動という観点から見ると物足りないという見方もありうるだろう、という見解がありました。

■「はだしになってもないの、根」
 ネットカフェという空間であることがすぐにわかり、一種の具象性から入りやすい親近感がある。しかし、空間としての閉塞性からは、自分が何もできない状態にあること=根、基盤となる何かがないということが認識されている。かといって諦めているわけではないと思う。
 ここでも、宇宙空間に似たインターネット空間に在って個であること、孤独が描かれているように思う。
 マンガの戻し方はルールを示すことだろうが、そこからマニュアル言語、新しい詩の言語というふうにつながっているようで、それを生み出さないだろうという店員への残酷さもあらわれているが、逆にこの言葉が自分に返っているのは、他傷がすぐさま自傷に戻ってきていて、つらい。
 タイトルがよくわからない。他の作品でもそうだが、タイトルが難しいのが多い。根だけ漢字なのはポイントだろうが、ダジャレ? 縦書きだと、根が本当の「根っこ」に見える。
 からだのゆがみ、パソコンの画面に映る顔という自分自身の体の認識が深まると思ったら、となりの部屋の声=他者が意識され、とにかく意識が尖鋭化している。そんな流れから、ニュースが重なり自分を傷つけた弾への微妙な意識が提示されるのが、せつない。
 空気が行かなければいいというのは、この閉塞空間の中でのある種の残酷さに見えるが、深刻な殺意ではなく無邪気さがあり、実は自分に対して一番残酷で、自傷的なのかもしれない。
 外界、他者への意識が明確で、作者の外部への意思がきっちり出ている作品だが、それがことごとく自分に返ってくる。

■「ニューワールド」
 あとがきを置いていない詩集だが、この作品は最後に置かれており、詩への言及があって、あとがき的な作品。散文のあとがきを置きたくなかったんだろう。1,2行目の言葉に、素直に感動することができる。体=空間の中での実質的な存在だけではなく、言葉に依ることで意味を見つけられるという宣言のよう。
 書きたいこと、表現したいことが川の流れのように順序良く必然として流れているのではなく、偶然の並びであるのが詩かなと、改めて認識することができた。作者も知らなかった未知の世界が言葉で開かれる=ニューワールドかと思い、深く共感できる。
 書く、言葉を出すということについての限界のなさを深く感じることができる。

 地元の詩人ということもあり、親しい地名も多く出てきて、それが取っ掛かりになるかと思うと、すぐに見えなくなる。冒頭の「川をすくう手」に出てくる武庫川沿いの病院で7階建て以上ってどこかと調べたら、兵庫医大病院と関西労災病院が見つかった。そういう面白さもある。
 一方で、インタビューでこの詩のモチーフとなったのは祖父の入院だったということで、それが母に置き換えられているというフィクショナルな部分、新幹線を見るというのは甲東園の山陽新幹線記念公園だろうが、病院より上流にあるし、架橋を見上げるのではないといった現実の染め替えを探す面白さもある。
 具体的な描写やエピソード、若い人に親しみやすいイメージもあり、一見入りやすい入口に見えるが、それを言語で抽象化する度合いが一様ではなく様々であることが、作品のわかりにくさでもあり、魅力でもある。
   ★
 短い時間でしたが、個々の作品について分析的な見方、創作者としての見方など、さまざまな掘り下げができた、貴重な時間となりました。現代詩について言葉を交わし合うことの楽しさと大切さ、しかも対面で(マスク越しとは言え)お話しできることのうれしさを実感することもできました。
 参加いただいた皆さん、そしてこの詩集を世に出してくださった井戸川さんに、心から感謝いたします。

 次回は7月13日13:30から同所で、講義形式と読書会の二本立て。①1940年代の詩~戦争賛美、マチネ・ポエティク、鮎川信夫 ②最果タヒの言葉を味わう。参加費は片方500円、両方800円です。詳細は当会のブログ https://ameblo.jp/esjohn/ を御覧ください。お目にかかれることを楽しみにしております。