隣に住む叔父が亡くなりました。

 

 

96歳。まあねえ・・・・寿命といったところです。昇天

 

 

戦前・戦中のことを知っている唯一の係累だったので、生きているうちにと、近ごろいろいろ話を聞きました。

 

 

参考までに、以下の2記事は、2020年の3月に東京大空襲について聞き取りをしたときのものです。

 

 

 

巨大な日輪 | baritontaroのブログ (ameblo.jp)

 

 

「巨大な日輪」補遺 | エサウ・マイスターのブログ (ameblo.jp)

 

 

 

 

今年の5月初め、叔父の家族の者が夕食に招待してくれたので、その折、私の知識のあやふやな部分を叔父に問いただしました。これが最後の面会になりました。

 

 

叔父は、耳は大分遠くなっていましたが、相変わらず記憶力はしっかりしていました。『巨大な日輪』やその「補遺」では、わずかですが私の思い違いをそのまま記事にしてしまった部分がありましたが、それを訂正することができました。

 

 

一番の間違いは、1945年当時、叔父は中学生(旧制中学)だとばかり思っていたのですけれど、そうではなくて経理専門学校に通っていたのだそうです。そして、戦争末期の人手不足もあって、在学のまま陸軍省に雇われ、その末端で仕事をしていたとのことです。(以下、青字は叔父の証言です)。

 

 

陸軍省内の通路で東条英機大将にバッタリ出会った。威儀を正して敬礼をすると、大将もきちんと敬礼を返してくれた。

 

 

どうということのない出来事ですけれど、超有名人ですから忘れられない記憶になるでしょう。恐らく1944年7月18日の内閣総辞職以前の話だと推測します。

 

 

東条さんは律義なので、案外一般人には人気があったんだ。

 

 

 

以下は戦後の話です。

 

 

東京大空襲で焼け出され、陸軍省は解雇になり、経理学校も資力がなくなって退学した。焼け野原に一人ほっぽり出された感じで、あちこちの知人の許に寄寓していたが、住むところぐらい自分でどうにかしようと思って、兄貴に相談した。

 

 

この兄貴というのは、もちろん私の叔父(母のすぐ下の弟)なのですが、海軍帰りの豪傑で、相撲がやたら強く、昭和20年代には国体の群馬県代表の常連でした。(幕下時代の栃錦と非公式にですが取り組んで勝ったことを終生の”金星エピソード”にしていました)。

 

 

その兄貴が言うには、「バラックぐらいだったらオレが建ててやる。材木の調達は任せろ」とのことだった。

 

 

約束の日の、なぜか夜、兄貴とその子分らしい2・3人の風体のよろしくない若者たちについて行くと、大きな材木屋の裏手に至った。材木がたくさん立てかけてあるのを、兄貴たちは片っ端から荷車に積み込み始めた。

 

 

「こんなことしちゃ、まずいだろう?」と言っても、兄貴は有無を言わさず「いいから早く積み込め!」だ。しょうがないから手伝った。泥棒をやったのはこれが最初で最後だった。オレは盗品の材木で雨風を凌いだことになる。

 

 

 

まあ本当に乱暴な時代でした。グラサン

 

 

しかし、犯罪は犯罪でも、何か牧歌的で可愛げさえ感じられませんかねえ。ポーン

 

 

今の犯罪は、紳士・淑女然とした連中が、正義の味方ヅラをしてやるから、タチが悪いんですけれどね。