巨大な日輪 | baritontaroのブログ

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趣味の声楽などに関する勇み足風の
所感です。たまに本業の印章彫刻に
ついてもホンネを暴露します。

時に顰蹙を買うようなことを言います
が、何卒ご容赦のほどを。

75年前の今日3月10日夜半、東京は米軍のB29爆撃機300機によって焼夷弾攻撃を蒙った。中央区、江東区、江戸川区などの下町一帯はほぼ壊滅状態となり、一夜で東京中の死者は10万以上を数えた。いわゆる東京大空襲である。

 

 

↑空襲後の東京の惨状。(ネットからお借りしました)

 

 

当時私の母は、江東区深川海辺町の住人で、この大空襲をもろに受けたことから、その話を子どものころからずいぶんと聞いてきた。その折、一緒逃げたという弟(私の叔父)が隣に住んでいるので、せっかくだから歴史の証人になってもらおうと、昨日話を聞きに訪れた。

 

 

↑92歳の叔父。頭はしっかりしているし、細部に至る記憶力の良さには恐れ入った。

 

 

母の話と叔父の話を総合すると、こんな具合になる。悲惨な話がちょっと長くなるので、苦手な方は読み飛ばしてください。

 

 

 

真夜中の空襲警報で目覚め、外に出てみると空が真っ赤だった。無数の爆撃機が夜空を乱舞し、花火のように焼夷弾をばら撒いていた。急いで身の周りの荷物をまとめ、各自の掛け布団を防火用水に漬けて頭を覆い、海辺を指して避難を開始した。同道したのは母(25歳)、叔父(17歳)、叔母(15歳)、母の叔母(?歳)の4名である。

 

海辺町から南西方向、木場を通って豊洲の海岸に出ようとしたと見える。およそ4キロほどある。

 

 

 

火災の熱風が吹きまくる道筋を避けて、海へ海へと急いだが、大勢の避難者の群れに遭遇し、容易なことでは進めなくなった。B29の巨体は低空飛行で、頭上を轟音とともに走り抜けていく。その恐ろしさといったら何とも譬えようがない。そのうち叔母さんに当たる人が気が変になり、まるでキツネツキみたいに目が吊り上がり、あらぬことを口走り始めた。火が燃え盛っている方へ逃げようというのを何度か諫めて引きもどしたが、とうとう一人で勝手に走りだしてしまった。

 

この叔母さんは、全身火傷で清瀬の結核療養所に収容された。空襲後、母が見舞ったら、「顔がお月さまのように腫れて、ぐるぐる巻きの包帯から口だけが覗き、二言三言話すのが精いっぱいだった」。叔母さんは何日か後にここで息を引き取った。この件では、叔母さんを見殺しにしたとのことで、親戚筋から非難もあったそうだ。「あの状況ではとても引きもどすのは無理だった」と叔父。現場を知らぬ人が往々にして最も厳しい批判者になるものだ。

 

↑B29戦略爆撃機。(ネットからお借りしました)

 

 

 

そこかしこに焼死した人が転がり、火傷を負った人がうずくまっている。そのうちの一人の女性が、「寒いんです。布団に入れてください」と言いながら寄って来た。「いいですよ」と母が入れたはいいものの、「顔を見たらひどい火傷でお化けのようだった」。恐ろしくなってすきを見てその人を置き去りにして逃げた。(この件、叔父も全くおなじ証言)。

 

母は、この女性に「ずいぶん薄情なことをしてしまったものだと後になって思った」と言っていた。

 

 

逃げ回っているうちに疲労困憊になり、母とその妹は防空壕に入ろうと言い出した。それをきっぱり拒絶したのが叔父であった。「だめだよ、こんなところに入ったら蒸し焼きになっちゃうよ」と言って、ひたすら海辺への道に導いた。

 

実際、防空壕に避難したために、蒸し焼きになったり窒息死した人は数知れなかったという。後の叔父の連れ合いも谷中で空襲に遭い、防空壕に逃げたが、外の火災で危うく窒息しそうになったと言っていた。母は、「今ある命は弟のおかげだ」と常々語っていた。

 

 

木場あたりの道路は複雑に入り組んでいる。水路に架かる橋も多い。たいていの人は混雑する広い橋を通って逃げたが、叔父はこのあたりの土地勘があるので、やっと人一人が通れるくらいの橋に母らを案内した。これがために速やかに豊洲海岸に出ることができた。木場の貯木場でも多くの人が死んでいた。「周囲の水などものともせずに、材木が燃え盛っていた」。

 

私が、「首尾よく逃げおおせた原因は?」と訊くと、叔父は言下に「地理をよく知っていたからだ」と答えた。

 

 

豊洲海岸は当時は砂浜だった。ようやくたどり着いた浜辺で顔を洗い、地べたにへたり込み、眠れぬ一夜を明かした。背負っていたリュックはみな途中で捨ててきた。母は、着物や反物を詰め込んだリュックを最後まで惜しんだという。

 

 

3月10日の夜明け、上る朝日を見たとき、叔父はびっくり仰天した。太陽がものすごい大きさに見えたというのだ。オレンジ色にギラギラ燃えながら昇る巨大な太陽。こんな光景は今まで経験したことがなかったと。同じことを叔父の連れ合いも言っていたので、主観的には間違いのないところだ。

 

物理的にどう説明するか、私も考えてみたのだが、どうもよく分らない。

 

 

聞いた話は以上です。

 

 

 

文学的にこの巨大な日輪のことを考えてみた。

・・・・もしかしたら、その日輪はアマテラスだったのかも知れない。日本人の集合的無意識に、森羅万象を統べたまう存在者としてアマテラスがあったとしても不思議ではない。ただ、この女神は、己が姿をもって苦難の民に何を伝えようとしたのであろうか。

 

それはまたゆっくり考えることにしよう。

 

 

翻って、現在の世界はウィルスによって大変な苦難の状況にある。これが終息した暁には、アマテラスは再び、真のコロナの炎のただ中に微笑むのであろうか。

 

 

(ネットからお借りしました)

 

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

ふう、どうにか今日中に書くことができました~。