2年前に書いた記事『巨大な日輪』(東京大空襲の叔父の体験談)では省いたエピソードも多くありました。このまま歴史の闇に葬ってしまうのは惜しいので、その中から若干を選んで記しておきたいと思います。

 

 

○一夜明けて

 

昭和20年3月10日の朝、母と弟妹の3人は、父母が疎開している群馬県大根村に行こうと、着の身着のままで豊洲海岸から東武電車の通っている駅に向かいました。以下、叔父の話と私が母から聞いた話を織り交ぜました。

 

 

 

食糧を入れたリュックはすべて逃げる途中で捨ててしまった。身軽にならなければ逃げ遂せないと判断したからだ。しかし、腹が減ってくると惜しかったなという気持ちも湧いてくる。ポケットを探ったらキンツバが1個出て来た。それを3人で分けて食べた。

 

 

「一杯のかけそば」どころの話ではないですね。

 

 

まだ朝方は寒い時期だというのに、街中は焼け跡から立ち上る熱気のために暑いくらいだった。家に帰っても無駄だと判断して、直接駅に向かった。妹は元気だったが、姉(私の母)は少し辛そうだった。妊娠していたからだ。

 

 

私は、その話を聞くのは初めてでしたが、生前の母から断片的に聞いた話をつなぎ合わせると我点がいきます。当時、母は新聞社の文選工をしていて、その社の記者と恋に落ちました。しかし、記者には召集令状が来て、外地に出征したまま音信不通になってしまいました。空襲の後、腹に宿した子は流産しました。戦後、何年かしてからその恋人から便りがありましたが、その時には母は別の男(私の父WW)と結婚していたので、会うのはやめたとのことです。母は一度、私に「お前には本当は兄か姉がいたんだよ」と話したことがあります。

 

 

(母の話)アスファルトがグジャグジャに溶けた道を辿って行くとき、道端のあちこちに黒いマネキン人形がたくさん積み重なっているのを不思議に思った。しかし、そう思ったのは一瞬間だけで、それがすべて黒こげになった死体だと気がつき、吐き気をもよおしそうになった。

(叔父の話)男か女かも判らない黒こげの死体は、消防団員がシャベルで無造作にトラックの荷台に積み込んでいた。

 

 

これほどの強い火災だと、人体は完全に炭化してしまうそうです。

 

 

なおも駅への道を行くと、被害が軽微だったところで炊き出しをしていた。そこで一人2個づつおにぎりをもらった。こんな美味いおにぎりを食べたことはなかった。町内会の人たちはみな親切だった。

 

 

戦時中は悪い話ばかり聞いていますが、こんなエピソードに出会うと日本人も捨てたものではないなと感じます。

 

 

駅(どこの駅かは聞き洩らしました)で、電車賃の心配をしていたら、被災者はタダで乗せてくれるとのことなので嬉しかった。窓ガラスがあちこち破れているノロくさい東武電車に乗り込んで、ひとまずは安心した。

 

 

私が若いころの東武電車は相変わらず遅かったですねえ。大宮から大田まで行くのに、一体何時間かかるんだっていう感じでした。今は見違えるほど速いですよ(笑)。

 

 

○逸話1

 

(母の話)空襲の合間に、道の端で多くの被災者に混じって休んでいると、3つか4つの女の子が泣きながら「おかあさ~ん、おかあさ~ん」と呼び歩いていた。親とはぐれたのだろうが、誰も助けようとはしなかった。女の子は裸足で川に架かった木橋を渡って行った。その足跡が血に染まっていた。

 

 

○逸話2

 

(叔父の話)これは空襲の少し前のことだが、すでにB29は東京の空を我がもの顔に飛び回っていた。高射砲はちっとも当たらないので歯がゆい思いがした。そんなとき、日本の戦闘機が一機、果敢にB29に立ち向かっていった。まるで鷲に燕が戦いを挑んでいるように見えた。ところが驚いたことに、戦闘機はB29の巨体に体当たりを敢行したのだ。戦闘機はあっという間に砕け、きらきらと陽にきらめく金属片になって舞い落ちた。B29はグラッととよろけただけで何の被害も蒙らないようだったが、やがて黒い煙を吐きながら視界の向こうに墜落していった。

 

 

叔父は戦闘機の名前までは知らないとのことでしたが、当時の東京の防空事情から推測すると、陸軍の「飛燕」だったと思われます。

 

 

英霊

 

 

すみません。この言葉しか頭に浮かびませんでした。

 

陸軍三式戦闘機「飛燕」