おなじみの観音堂の桜です。我が家から歩いて3分です。
咲き誇るのは楽しみですけれど、このくらいのままで続いてくれたらいいな。
桜の木の下に佇むと、微かな香りとともに爽やかな桜の花の霊気が体中に沁みわたっていくような感じがします。
これ、絶対何らかの化学物質を発散しているんだろうなと思って調べてみました。
・・・・クマリンとかフィトンチッドとかいう物質で、いずれもリラックス効果や鎮静効果があるそうです。やっぱりね。
昔、古典の時間に、厳重に言い渡されたことがありました。
先生「いいか、古典の『にほふ』は嗅覚ではなくて視覚なんだからな。試験で『にほふ』が出てきたら、『色鮮やかに美しい』とでも訳すんだぞ」
はあ、そんなもんですかと素直に言うことを聞きましたが、後々これおかしいんじゃね?と気づきましたね。
だって『源氏物語』に薫の君とか匂宮ってのがでてくるでしょ? 薫の君は体から腋臭のにおい・・・・じゃなかった、良い匂いを発しているので、匂宮はそれに対抗して着物に香を焚き込めます。これ、明らかに嗅覚じゃないですか。
どうやら『万葉集』時代にはほぼ視覚だったのが、平安時代には両方の意味で遣われるようになったらしいことが分かります。
有名どころの歌を並べてみましょう。
『万葉集』から。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
小野老作。「あをに(青丹=青黒色の土)」という視覚との連関で、この「にほふ」は鮮やかに美しいと解釈するのが妥当です。
『古今集』から。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける
紀貫之作。「香」とありますから、この「にほひ」は嗅覚に間違いありません。
では菅原道真のこれは?
東風吹かばにほひをこせよ梅の花主なしとて春なわすれそ
視覚とも取れそうですが、「東風=春風」との連関で嗅覚と受け取った方がしっくり来るでしょう。
本居宣長先生のこれはどうでしょうか。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
これは視覚でしょうねえ。「朝日に匂ふ」ですから、朝日に照り輝いて美しいぐらいの意味と捉えられます。やっぱり本居先生は上古の美を称揚するのです。
こうしてみると、「『にほふ』は嗅覚ではなくて視覚なんだからな」と断定してしまうのは、むしろ間違いですよね。
ただ、入試で「にほふ」が出されるとしたら、現代人にとっての常識である嗅覚よりも、視覚で引っ掛けることが圧倒的に多いでしょうから、実戦的には先生の言ったこともあながち間違いとは言えません。
・・・・と長々書いてしまいましたが、思うに受験知識というのは役に立たないわけではないにしても、変に頭を硬くしてしまうようです。