例えば、自転車に乗るとき。
必要なのは、まず補助輪なしで乗れるようになるということ。
そのための練習をしますよね。そして。
公道を走っても安全なように、交通法規の中の基本ルールを学びます。
もちろんお子さんの場合、普通はご家族が見守りながら安全に自転車で走るためのルールを教えていくことになるでしょう。
つまり私たちの「自転車に乗る能力」は、自転車というものでひとりで移動できるようになるフィジカルの技能と、交通ルールという知識の二本立てです。
交通ルールを叩き込むのなら、座学でもよいわけですから、5~6歳くらいのお子さんよりは大人の方がはるかに効率的です。
でも、だからと言って、ご自分のお子さんが自転車の練習をするのを、「大人になるまで」待つ方はいらっしゃらないと思います。
なぜでしょうか?
それは、子どものうちのほうが、自転車に乗るという技能は、はるかに短期間に、しかも高いところまで到達することが経験上わかっているからです。
英語に関して言えば。
子どものうちに触れさせておくべきは「話し言葉」。
大人になってからでも充分に間に合い、効率的に学習できる「読み書き」は、少々後になっても構わないのです。本人がやる気になれば、長い目でみればいつか必ず取り返せるものです。
しかし私が英語教育を早期からはじめる意味があると言っているのは、「話し言葉」に関して、聴力と発音ではお子さんには大人にはるかに勝るアドバンテージがあるからです。
そして、言語の内容だけにとらわれることなく、何を意図しての発言なのか、状況や心境をありのままにくみ取る力。これは、知っている言葉が限られている幼児との意思疎通でお気づきになる方も多いと思います。お子さんって、「分からない」ということに疲れたり、へこたれたりしない。子どもさんがもって生まれた能力を自然に導かれるままに見事に開花させていく姿は、本当に深い感動を覚えるものです。
読み書き中心のテストに慣れた今現在の普通の日本人が英会話スクールに通う理由は、「話し言葉」のため。和文英訳で答えの英文を書くのと、会話をするのではスピードが違います。耳から入った情報だけで、それに返答するのに自然な時間のうちに(せいぜい3秒です)返答を開始しなくてはならないですし、英文を書くときのようにさかのぼって推敲する時間はありません。
さて、話し言葉というのは、音楽で言えば実際に演奏される音楽そのもののこと。
それを人に伝えるためには楽譜を使うわけですが、楽譜は音楽がはじめにありてその価値が出る「記録」にすぎません。
音楽でいうところの、その曲や歌、演奏の素晴らしさが「話し言葉」。
楽譜が「読み書き」の部分だとご理解いただければと思います。
「話し言葉」は、耳から入った音を正しく聴き取り、その音を自分の口を使って再現できる能力が無いと上達できません。
しかし、その能力というのは、自転車に乗る技能などと同じように、年齢が上がるごとに逓減していくことが明らかになっています。
大人になってからでは、100%は開発しきれない能力のひとつです。
あなたが「読み書きオンリー」で結構なのであれば、早期英語教育は必要ないと思われるかもしれません。
しかし、言語の本当の力は、あくまで「話し言葉」にあるということをお忘れにならないでください。
私が目指している英語教育は、自転車の乗り方にあたる「話し言葉」を、それを受け取るのに最も良いタイミングの方々に、可能な限りたくさんお届けすること。そして、そのための優れた環境を可能な限り整えること。
ご賛同いただけない方も日本にたくさんいらっしゃることは分かっています。
しかしせめて、まだ小さいお子さんに私たちが働きかけをしているのを「意味が無い」などと邪魔するのだけはやめていただきたいと思います。
母語を外国語が超えることは無いという事実を元に、子どもは母語のみを教育するべきだというご意見がありますが、私ははっきりと否、を申し上げます。子どもを日本語環境に閉じ込めておくことは、英語に限らず他の言語への可能性を閉ざすことに他なりません。
ご自分が音楽にご興味がなくても、となりのお子さんがピアノやヴァイオリンの教室に通うのを、意味が無いと揶揄なさる方はいらっしゃらないでしょう。また、たとえ音楽に興味の無いご家庭でも、義務教育での「おんがく」の時間を、余計なことだとか百害あって一利なし、とはおっしゃらないと思います。
英語は違う?いいえ。同じです。
どのようなご意見でも、謹んで拝聴いたします。続きます。