日本語を外から眺めつつ完璧な日本語でそれを私たちに解説してくれたり、英語しか知らない私たちでは気が付かない視点からいろんなことを教えてくれたり。
ロシア語同時通訳で小説家・優れたエッセイストでもあった米原万里さん。
日本語だけの知識から一歩を踏み出すのに大変なかつての(今でもですが)私のような「フツーの日本人」つまり英語が得意ではないタイプの生徒さんにも役に立つバイリンガルにいたるまでの知恵が、この方のエッセイにはあふれています。
その中でも特に印象深かったお話し。
心臓に毛が生えている理由(角川文庫)より。
バリバリの共産党員だったご尊父に連れられて、小学生の万里さんが在プラハ・ソビエト学校というロシア語でロシア人の教育をするスクールで教育を受ける経験をなさったのはよく知られているお話しだと思います。
そのソビエト学校での、司書さんのお話し。
アレクサンドラという雄大な女性だったそうなのですが、あだ名が「ドラゴン・アレクサンドラ」。
なんとも恐ろしいですねえ。本の返却が遅れたり本を傷つけようものなら、それはそれは容赦ない指導があったのだとか。
そのうえ彼女がドラゴンと恐れられていたのは、実は本を返却する際の「尋問」にあったというのです。
一度読んだお話しなら、内容は分かるわね?話してごらん・・・
これね。実際にやられると、決して簡単ではないはずです。
本の中にある驚きも感動も、時に読み手の感情に微かに芽生える優越感や劣等感さえも心の中ではすべて最初は「!!!」。
それをきちんと他人に分かるように言葉で説明する?
日本人のいたいけな少女万里が、見慣れた日本人の大人とははるかに違うサイズの白人女性に詰め寄られるのです。大人だって堪えます。
日本から転校してきたばかりの万里のロシア語がたどたどしいのは先方ももちろん承知のこと。黙り込んでしまった彼女に、アレクサンドラは助け船を出します。主人公の名前は?
やっと答えを返せた万里。すぐに次の質問が飛びます。
答えが単語どまりだったり稚拙だったり、文章になっていないのは当たり前のこと。アレクサンドラは万里の稚拙な答えを補完したり、正しい表現に直してあげたりしながら話を促します。
そして、ロシア語初心者の万里に、なんとか物語の主題まで述べさせることに成功するのです。
そのように厳しい学校の図書館だったら足が遠のく?
いいえ。そのあとも図書館に通う万里は、借りてきた本を、アレクサンドラに語り聞かせる想定をしながら読む習慣を身に着けます。
実は、私がやりたいことも本当に突き詰めていけば「ドラゴン・アレクサンドラ」の役目かもしれません。
英語を勉強しているときに非常に効果的なのは、自分が言ったことをきいてもらい、間違った表現をその都度直してもらうこと。
私も時間がある限り生徒さんと英語で会話をし、話を引き出したり英語表現を正してあげることにしています。言うほど簡単ではないのですが。ネイティヴの講師のほうが断然得意な分野と思われるでしょうが、私たち日本人は「日本人の日本人的な発想」が理解出来るので、それを英語的発想からの英語表現に置き換えてあげるということが伝わりやすいという利点もあります。
いつかは、英語絵本の図書館を作ってそのカウンターに陣取り、本を読み終えた子ども(や大人)たちを片っ端から捕まえて、英語でその本の魅力を表現してもらう。そんな「ドラゴン・ミユキ」になりたいものです。
私の場合は英語ですが、日本語の普通の図書館でも実は同じこと。「ドラゴン」の厳しさが必要かどうかは図書館の性質にもよるのでしょうが、図書館で働くすべての方に、なんらかの示唆のあるエピソードではないでしょうか。
全てのことが「サルにもわかる」表現に置き換えられないと気が済まない世の中は貧しいものです。
ときには少々憎まれ役を買って出てでも、「本を愛する」=「知恵を磨く」というのがどのようなことなのかをきちんと示す大人がいてもよいのではないかと私は思います。