近頃でもふっと、と言っても年のうちにあるかなしかだが、よく晴れた日、しいんと静もるほど陽の光に満ちた空の色をみていて、ああこれは長崎の陽の色だ、と気のつくことがある。
このような文章で始まる「私の長崎地図」。
生まれ故郷を思う時の臆面もないほど心に突き上げる愛着の気持ちが、素直につづられています。
どのような場所であっても、特別の思いを感じざるを得ない、それが子どもの頃に過ごした「ふるさと」というもの。
風の音、街を歩く人の足音までに特別の愛着を覚える、たいせつな場所。
どこにでかけても「○○に行ってきました」というおまんじゅうがお土産に並ぶ今の日本の国のなかで、故郷というものの地位はどれほどかゆらいでいるようです。
望むものがお金さえ払えばあっという間に自宅まで届く便利な生活の中で、今の私たちは「相対的に」自分が子どもの頃に食べなれたものが「一番おいしい」というわけにはいかないと知っています。味覚は人それぞれ。それに自分にとってはどれほどか特別な私の故郷は、客観的にみればよくある港町のひとつにすぎないのでしょう。
そして、海の色、蝉の声さえ違う、ときっぱりと言い切る「明治生まれ」の作者の「心の自由」をうらやましく、愛おしく思いました。
続きます。