高校生だったころ。
今はどうか分かりませんが、大学受験のための社会科といえば日本史か世界史が主流。でもコツコツ暗記するというのがニガテな私は、政治経済で受験をしようと考えていました。なので、多分に消化試合ぎみで(当時のことです)誰も聞いちゃいなかった、ある日の「現代社会」の授業のとき。きっと一番真面目に授業を受けていたのが当時の私です。なのでよく覚えていることなのですが。
当時も内戦が続いていたシリアの情勢について、「銃撃戦や騒乱はあるものの、それがある意味日常となっていて、学校もやっているし、子どもたちは銃弾を避けながら通学するような生活を送っている。」との話がありました。
私の感想は。
シンジラレナーイ!!のひと言。
明日も分からない内戦の続く日々に、自分だったら馬鹿馬鹿しくて(失礼!!)学校など行けたものではない、と思いました。私のホームタウンは、あの村上龍を生んだ長崎県の佐世保市というところ。世代は違いますが、教師の言うことだからとやすやすと信じるものではない、という意識は、若干強かったでしょうかね。
でも、今朝、早く早く!なんて、いつものように子どもを追い立てて学校へ送り出してから今思うこと。
昨夜も大きな地震がありました。
もし、「あの日」のような大きな地震があったら。
電車が止まっては、学校から家に戻るにも簡単に歩けたものではありません。
そして、原発の事故の負の遺産は、今後も形を変えて続いていくのです。
私たちの「先祖伝来の」土地も、脅かされているというのが現実に、「あの日」を境にして起きていること。
東京に直下型地震の来る可能性が迫ってきているといわれている今の生活は、「いつ突発的に発砲戦が起きるかも分からない内戦下の国の生活」と、何ほど変わるものがあるのでしょうか。
それでも人の営みは続いていく。
そのことを愛おしく、そしてやるせなく思うのです。