著名な知人がご尊父を亡くされました。
その方は、家庭的とは言い難いお父様の生きざまに触れ、いわく言い難い思いをお持ちだったようです。そしてそのことも大きな礎として、家族の在り方を真剣に考えるオピニオンリーダーをなさっています。
そのような方に大変僭越なのですが、私から送ったお悔みの言葉は、次のとおりでした。
「お悔やみのことだと
家族はあわただしく過ごしてしまいがちですが
お姿があるうちに一度きちんとご自分の悲しい気持ちを
真剣に受け止める時間をおつくりになってください。
お悔やみ申し上げます。」
私も母が亡くなってもうすぐ3年。強い個性を持って生き抜いた、家庭的には慈母というよりはもっともっと強い母でした。母親として高得点の望めるタイプ、ではなかったです。面白い個性の人物なので、好きではあったのですが、私は末っ子ということもあり、ついぞ深いふかい縁というものを感じることが無いままであったかもしれません。
その母が亡くなったときに、自分でもやや意外なほど悲しい気持ちがあふれてくるという経験をしました。
私がものすごく幸運だったのは、田舎のことでもあり、実家でお通夜、お葬式を済ませることが出来て母にお別れを言う時間がたっぷりあったことです。
住み慣れた実家に、母の遺体が戻ってきて一緒に夜を過ごし、最後にゆっくりとさよならが言えたこと。
わざわざご近所に触れ回ることがなくても、家を取り巻いたクジラ幕(不幸のための黒白の幕)を見たご近所の方も来てくださり。
人が亡くなるということはこういうことか、と、あらためて勉強させられたような気がします。
今は場所によっては火葬場の予定などもあり、お葬式までに日数がかかるせいもあるのでしょうが、病院などからご遺体は一度もおうちに戻ることが無く、斎場に直行するのが慣例になっていますね。
また、お葬式を出すおうちでも、斎場ですべて整えてもらってクジラ幕を家に張るなどということは少ないようです。
それがいけないというのではもちろんありません。お葬式も時代につれて変わっていってしかるべきです。
でも、近しい人を亡くして悲しい気持ちは古今東西関係なく共通しています。
そして、悲しい気持ちはいつも自覚しているとは限らないし、頭で考えているものとは一緒ではない、と、親子の縁というものについて感じます。
私が、本当に僭越ながら知人にお勧めしていることは。
じっくりと亡くなった方とのお別れを受け止めること。
時間が無いあわただしい中でこそ、心に留めておすすめしていることです。