以前にこの永井博士については歌にもなった有名な著書「長崎の鐘」について読んだ感想を書きました。いえ、書かざるを得ませんでした。
長崎という街はどこにも似ていない独特の文化と歴史がある場所なので、いわゆる「ご当地ソング」に事欠かない場所なのですが、長崎市民が選ぶ長崎のうた、というと、「長崎の鐘」。今でもとても人気があります。1947年発売というのだから、移り変わりの早いポピュラーソングの中で、独特の地位を築いているのが分かりますね。
それほどに地元から慕われていた永井博士。今日は別の著書で、映画化されたこともある「この子を残して」。
当時最先端の放射線医学を極める医学者の一人として、実は長崎で原爆にあわれる前から、永井博士は体の不調を感じ、長くは生きられないものと密かに思っていらっしゃいました。
まだ未知の分野である放射線医学に携わり、その危険性が明らかになった時にはもうすでに実験などでかなりの被ばく量を浴びていらっしゃったからです。
長崎の鐘から教えられることは、原爆投下当日の長崎で博士がなにをご覧になったかということ。状況を冷静に判断し、持てる知識を総動員して医療に当たられた様と、その今見ても驚くような医療の知識に、日本の国力が決して2流のものではなかったことがうかがい知れます。
その、壮年でありながら体調に不安を抱えていた永井博士。しかし長崎の原爆投下で、博士の運命はさらに暗転します。
自分が先に逝ったあとも二人の子どもを託せると信頼していた奥様が、原爆の被害で亡くなってしまったのです。
私の亡母が生まれ育った長崎の浦上という町で、ご近所にお住まいだったというそのご自宅。平和祈念公園にほど近い場所。そうです。爆心地です。
焼け残った骨盤の一部と熱心なクリスチャンであった証のロザリオだけを残し、奥様は逝ってしまわれました。
疎開先で被災を免れた二人の子どもを抱えての、博士の厳しい生活がはじまります。体の不調と闘いながら、父親として残された時間の少なさの確かな予感の中、生きる苦悩が書かれているのが「この子を残して」です。
続きます。