久々読み返したんだよな~~
やっぱ読み応えダンチやわ~~~
作者の杉山春さんの講演会に行ってからもう10年。
サインもろた♡
杉山さんの本は、こちらも持ってますが
「ネグレクト」の方が、断然読み応えがあります。
というのも、逮捕後の両親と、多くの手紙のやり取りをしたり
祖母とかご近所さん、果ては真奈ちゃんに関わった医療関係や福祉関係の方のコメントも、手厚く掲載されてるからなんですよね。
「ルポ虐待」も、そうしたコメントがないわけではないんですが
加害者となった親の心情を推し量るものが少ない。
そして「ネグレクト」は、被害者となった真奈ちゃん、加害者の両親、祖父母、果てはその親までバックグラウンドを遡り
舞台となった街の歴史的背景をも追うなど、しらみつぶしの考察がすごいです。
そうした考察を読んでいると
「一体どの時点でこの事件化が防げたんだろう」
というのが、皆目分からなくなってきます。
祖父母の代なのか、果てはそれより前か。
運命的に決まってしまってたことなんだろうか、と
やるせない気持ちになります。
真奈ちゃんが亡くなったのは2000年、まだ「ネグレクト」という虐待が一般化してなかった頃でした。
とはいえ携帯はガラケー全盛期だし、今のように見知らぬ同士が簡単に繋がったり、面倒な人間関係を簡単に根こそぎ切ってしまうような雰囲気はありません。
介入の仕方に何らか問題はあったのかもしれませんが
行政も病院も連携を取りつつ、両親の2人の祖母も育児支援に協力的で
大勢の人がこの家族に関わっています。
なのに防げなかった。
読み進めると両親、特に母親の心情が
落ちていくのもやむなしな状態に陥ってきます。
もともとこの両親も、安心安全な家庭環境で育ったわけではなかった。
心の土台が簡単なことでぐらつきやすいのです。
でも、かといって
それだけを理由に、この悲劇を容認することも困難ではある。
しかし「あの時ああしていれば」という解が、あるようでない。
どこでつまづいたのか、どこで引き戻せたのか、答えが出ない。
そういう風に答えが出ないからこその事件化だったのか、と気付くばかりで
いつまでも何かを考えさせられる。そういう意味でのずば抜けて良書です。
逮捕後、夫婦が互いの気持ちを交換日記のようにやり取りしたノートがある。
そこに書かれていたのは、リアルからかけ離れた愛の言葉だ。
母の雅美は3人目の子どもを妊娠しており、その子をきちんと育てていくことが、真奈ちゃんに対する供養にもなると夫婦で考えている。
何ならその子は真奈ちゃんの生まれ変わりという認識が二人にはある。
杉山さんはこう語る。
思いがけない災難に遭ったが、困難にも負けず、前向きに生きていこうとするかのような記述は、真奈の死後に書かれたものとしてグロテスクとしか言いようがない。
だが、雅美の認識としては「くよくよしないで前向きに生きる」という気持ちは、生きる意欲をなくしていた日々に対する反省なのだろう。何が起きても明るく元気よく前向きに生きていく。雅美が認識する「善」はそれ以外にない。
この現実感のない明るさこそが、雅美の病理そのものだ。
こうした病理ってさ
今や、地球上のほとんどの人が持ってるんじゃないかな?って思うんだ。
2000年当時にはなかったSNS。
盛った画像や編集された動画を、美しい言葉で彩り
誰もが合成されたフィクションを日々目の当たりにして
そこによりどころを見つけてる。
スマホをかざしてない時こそが
本当の世界なんだけど
それは広く知れ渡ることがなく、どんどん現実と乖離していく。
病気にならない方が難しいwww
だから俺は、光よりも闇を見る。
この本をはじめとする、どうしようもなく解決できない、ありとあらゆる闇。
虐待とか戦争とか原爆とか、そういうのに定期的に触れて、自分のチューニングをする。
俺、今、いいカッコしてないか?
ちゃんと足下見えてるか?
今日もどれだけ、自分の本音に一番近いところに寄り添いながら、言葉を発し、行動をできたのか?
どんだけ精査しても、しすぎることはない。
ほんのちょっとの刺激や欲望で、人間は簡単に道を踏み外すから。
申し遅れましたが、この事件そのものは
20代前半の若い夫婦が、長女の真奈ちゃんを育児放棄し
最終的に段ボールに閉じ込めて、3歳で餓死させたという内容です。
「鬼畜の所業!」とか何とか、その辺にありそうな言葉で、この両親を責める前に
読んで欲しいし考えて欲しい。自分だったらどうなのかと。ここまで陥ることは本当にない、と言い切れるのかと。
そして、できるだけたくさん、自分の本音を見つけて、最優先して
キレイなフィクションではなく、汚いリアルの中でも、たくましく生きていけるすべを掴んで欲しい。
墓まで持ってくぞ!!!!