全部の地面を踏みたくなる | 闇を愛するアラフィフニート主婦の日常

闇を愛するアラフィフニート主婦の日常

旦那と2010年生まれの息子と暮らしてます。
2013年にパート勤めを辞めて以来
「さして働かず、さして家事せず、さして子育てせず」をモットーに
不謹慎でネガティブな日々を送っています。

この地域に、もう13年ほど住んでて

それなりに飽きも来てると思いつつ

 

時折、ちょっとした買い物に

あえて徒歩で行くことがあるのだが

 

「この道を数え切れないほど通っているけど

この道の、端の方とか、あそこらへんとか

きっとまだ踏んだことがない」

 

って思ったりする。

 

13年も住んでる家の、目と鼻の先でも

俺の足とか、俺のチャリのタイヤとかが

まだ通ってないところがある。

 

そんなこと言ったら、この狭い家の中でさえも

俺が触れたことのない箇所なんて、きっとたくさんある。

(1回も掃除してないとことかw)

 

そんなの当たり前かもしれないけど

何となく悔しくて

だから遠くに行きたい気持ちも、多くを知りたい好奇心も

ただでさえ薄いのに、そういう時はどんどん薄まって

 

「毎日目にしてるこの木も、この葉っぱも

一度も触ったことがない」

 

って、どんどん奥底に潜って

ともすれば、今すぐ手に取って

1枚の葉っぱを、1粒の砂を、変哲のない石ころを

ずっと眺めてられる気がする。

 

身の回りにもほどがある

だけども、わしは自分の半径1メートル程度ですら

全然制してない。

 

だから面白いのだ。

 

血管のような葉脈とか

キラキラした砂粒とか

アスファルトに消えていく水滴とか

 

飴の包み紙のギザギザとか

電気コードのカーブとか

ネジの繊細な溝とか

 

人間の作ったものも

そうでないものも

 

誰がどうやって産み出して

いつからどんな風にそこにあって

 

どんな願いを込められて生まれ

どこを旅してたどり着いて

今目の前にあるのやら

 

とか考えてるだけで日が暮れる。

 

春休みは、こんなもんだろ。

 

中学入学を控えた12歳の息子と、程よい距離感で

でも一人きりでは決してない、自分に集中できない環境で

俺は好き好んで、息子と自分の空間を混ぜて

 

「こんな風に他人と自分を混ぜるのは、この先減っていくばかり」

 

って知ってるから

名残惜しく自分を明け渡す。

 

嫌になるほど一緒に居た我が子でも

わしがまだ触れてない箇所はあるんだろうか。

 

あいつにしてきたように俺は

世界をくまなく触りたいんだろうか。

 

彼はわしを、昔から「おかあさん」と呼ぶが

「中学行ったら、『ママ』って呼んでみよっか!」

という、わしのアホな提案に

「なんで?」って普通に返された。

 

皆がきっと、ママからお母さんに変遷していく過渡期で

あえての逆張りを楽しんでみようかという行為は

触れてないあなたの箇所に、触れようとする手立てなのかもしれない。

 

いつか、葉脈も砂粒もネジも息子も

居ない世界に行くことを知ってるから。