「日本建国創建史・解読テキスト図」(元初ヤマト言葉・語元の出自) | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

《【ΙΑΩ】(八尾市の語元)に始まる【日本建国・創建史・発信会》より~

…図表完成(2020/09/22=令和2年・秋分の日)…

 

…「日本建国創建史・解読テキスト図」(元初ヤマト言葉・語元の出自)…

 

 

…ヨーロッパ(中世)で発刊された『カバラ』( 光輝の書)。その原典【ゾハール】(ZHR=光輝の書)の内容は既に「抜け殻」であった。それは、【死海文書】(1947年発見)をクムラン洞窟に隠し残し極東の島に【ヤマト国家】を創建した人達の子孫が作成した『秀眞伝』(ホツマツタヱ)文書を研究する事に因って解りました。

 

…つまり、ゾハールの中で用いられた数秘術は、脱ユダヤ教思想者達が教義を立ち上げるのに利用し、そのトップグループの人達が【カミの顕現】(紀元前31年に発生した大地震/創世記3910年)を以て、【ヤマト国家】を創建する為に極東へと旅立ちました。因みに、地元に残った一部の人達、つまり、「バプテスマ(Baptism/救いの儀式)のヨハネ」達は、現地に於いて「メシアの来臨」を待ち望んでいました。

 

「Godテオス=カミ代の物語」が先に在って、日本(ヤマト)の国が創建されたのではありません。極東に【God=カミの国】を創建する思想はエゼキエルの予言、即ち…「私を東の門に連れ戻しました。すると突然、、イスラエルのカミ(God)の栄光が東の方から現れました」(エゼキエル書43・1~2)と記す文句に起因します。此の予言(紀元前六世紀前半頃)を成就させたのが、エゼキエルが説く「悔い改めの儀」を、子孫を通じ全うし、更なる教義を引き継いだ【クムラン・秘儀宗団】(BC125年頃結成)トッブグループの子孫達(AD四世紀中頃のミマキイリヒコ王の時)でありました。因みに、【ミマナ=任那】(AD369年・成立)の語元(黎明的な意味を含む語源の意ではありませんは、【ミマキイリヒコ】(崇神天皇/漢字表記は後付けで仮名読みが正しい)の呼称でありました。従って、「ミマキイリヒコ」(崇神天皇)は歴史上の人物と言う事に成ります。然し、此の人物が極東の島を統一したのではありません。

 

…日本列島の小国統一(言葉の統一)を指揮していたのは【ΙΑΩ】(八尾市の語元)の【アラヒト】(サドク系大祭司の子孫)の子孫達でありました。それは、創世記の予言「イエバシロ」(創世記49・9~10/ΙΒΑΣΙΣΗ・秘儀数価358)に基づいていて、尚、ノアの嫡男「セム」(セム語の語元氏族/数価340)の呼称数価を用いて設定されました。

 

…つまり、世界暦ユダヤ暦4100年改め、【幻の西暦340年】(クムラン大地震から371年目・孝霊天皇即位年数価)の時として…それ迄の小国連合体系は、その連合体型の頂点とする【ヤマト国家】を設定し、「ミマキイリヒコ」を国王としてとして即位させました。然し、【ΙΑΩ】(八尾)のアラヒトに因るミコトノリ詔=初国知らすミマキの代にあっては、即位12年目の時として、それは「予言=イエバシロ・語元数価358」に関連付けて発令されました。此れが…「長髄彦・討伐物語」(神武天皇・即位年設定方式・物語の題材(紀元前7年にタイムスリップ)であった。従って、「タケヒト」(神武天皇の幼名)皇軍は、【ΙΑΩ】(八尾市の語元)のアラヒトから「聖戦の印」アマツ印=アメノハハヤ・天羽羽矢&カチヤナグイ・歩靫を受け取る必要から、「八尾市の竹淵地域」(竹淵神社縁起書は八尾市史に取り込まれています)を経由し、「竜田超え」を行う作戦が立てられました。

★以下【追記】(令和2年=2020/10/02/金曜)します~

…【ナマス】(膾)とは、「魚・貝・獣」等の生肉を細かく刻んだ「酢料理」です。因みに、発酵食品はヒマラヤ地域と東南アジアを含めた東アジア圏特有の発酵技術とされていて、その麹(コウジ)は、日本以外で作られる「餅麹」(もち麹)では無く、日本特有の「撒麹」(ばら麹)です。つまり、日本では建国当時(AD・1世紀初)から、我が国(ヤマト)独自の技術に因る「サケ・ス」(酒・酢)製造が宮中で製造されていました。

 

…「刺身」の起元は【ナマス】(膾)です。つまり【ナマス】とは、「魚・貝・獣」等の生肉を細かく刻んだ「酢料理」の事でした。その【ナマス】の初出は…『ホツマ伝・40章』(景行天皇53年8月~54年9月)に因ると…御船(景行天皇の御幸船)上総へ行く、アホの浜。鶚(ミサゴ)餌(エ)食むを民に問う、あれは白蛤(ウムキ/蛤の呼名)と(言って)、賊(シツカ)が食べていた。それで、【ナマス】(膾)料理も良しと考えた、ムツカリ(人名・磐鹿六雁)が、蒲襷(カマダスキ)して、獲るウムキ(白蛤)、膾(ナマス)に為して進むれば、膳伴部(カシワトモベ)と、景行天皇から名を賜う…等とあります。従って、漢字で訳された『日本書紀』の景行天皇条にも此の事が記載されています。

 

…因みに、【酢】の文献的初出は…イスラエルの指導者モーセに因るアラビア語「エッシッヒゲヌス」(Essiggenus/紀元前13世紀頃)とされています。つまり、【ナマス】(生肉の細切り料理)料理は景行天皇時代以前、既に存在していた事が伺えます。又、我が国に於ける【ス=酢】の初出としても『ホツマツタヱ・16章』にあります…(前文略)…コツキ(9ヶ月)御目声そなわりて、トツキ(10ヶ月)くらいしソフフキは、月満生まる御種此れなリ 。折しもに、姫の嘆きは子を思う、風のトモシヒ 、タマコ(胞衣)つむ、やすき日もなく水をを請う、或るは【ス=酢】を請ひ 胸騒ぎ、ツラにのほせはヱタひゑて、ヒメモス悩み御食たべす、胸の痛みや 目の眩み、たまに良き日は豆拾ふ、この労りも慎しみて、良き年述べど今我が身(天͡児屋根命)、息すひとときヨソジ程、足らぬヤモフの悲しさよ、コモリ(人名・子守)は姫の息ス見て、チ腹を撫でて笑みす顔(後文略)~。と記載されていて、お産前の苦しい時には【ス=酢】請うていたとされています。

 

…【和歌】は宮中(用明天皇頃迄の宮中行事)に於けるステータスであった。又、【酢・料理】も宮中(大祭司系・氏族)料理であった。然し、天智(中大兄)天皇に因るクーデターで、それ迄の【宮中行事】等は天皇系氏族に簒奪AD667年=天智天皇6年3月…都を近江へ遷す・此の時、天下の百姓は都を遷す事を希望せずされました。

 

 

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…此の続きは後日と致します…