カミの御名【ΙΑΩ】(ヤオ=八尾)に始まる日本建国創建史(神武~景行紀迄) | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

【追記】(令和元年12月31・火曜)「鳥居形状の神明系と明神系の存在に付いて」。「Qumran から日本列島迄の移動ルートに付いて」…

 

鳥居の基本形は【明神鳥居】である ~ その形状の根元はギリシア文字【A】(イオニア式数価1000)の尖った先を水平に切断した形と、【Τ】(イオニア式数価300)を逆さにして組み合わせた形です。つまり、観念的天界(倭語アメ=天/千木の語元数価・160が天界に設置され、地上の千木との交信の役割を果たす)。それは、「ノア期に発生した大洪水等を阻止する祈祷文版が観念的な天界に設置された」(ヨベル書に記載)とする事に対応する為に設置され、その最初の設置地は、現在の「大阪府八尾市渋川」(渋川神社が存在する)地域であった。何故ギリシア文字【Τ】(逆さ文字)を組み込んだのかと言えば、それはユダヤ教Godの御名【ΙΑΩ】(ヤオ/八尾市の語元と成る)の御魂(300)が存在する事の意思表示に当る。ちなみに、【神明鳥居】と言う呼称は後付であり正式名称ではありません。本家の伊勢神宮側では「上葺(フ)かずの門」(カミの御魂の門の意味)と呼ばれる。つまり、それらの事を念頭に置き、基本的にはホツマ文字19番目【ヰ・ゐ】(円の形状)の文字形状を用いて【明神鳥居】(一般的形状)の形が作成されました。又、【神明鳥居】は、ホツマ文字18番目の【シ・し】(Πに横一を組み合わせた形/アルファベット【S=シン】に対応する)の形状を用いて作成されるが、その意味する処は、ユダヤ教(ヘブル文字)に言う【シン=300】(カミの御魂数価)の意が秘められている。その秘密裏的【シ(S)柱】の意が、後に言う「シン(S)名(明)鳥居」と呼ばれたのかもしれません。

クムラン(Qumran )から日本列島への移動ルート ~ 紀元前31年(Qumran 大地震発生)以降、Qumran 秘儀教義宗団トップグループの内の最終移動組(大祭司他、イエス誕生を祝した占星術師達)の極東移動ルートは、Qumran 、メソポタミア、アフガニスタンの西部(チベット教のルートに当る地域・大月氏の支配地に当る)を経由し、大月氏の使者と供に前漢末の「哀帝の学者を訪問」(紀元前2年・王莽に浮屠教を伝えた)した後、徐福の渡海起点地付近の会稽(カイケイ)の東冶(トウヤ)の処から船を用意し、沖縄、九州の有明海へ入り、此処(佐賀県杵島付近)から上陸した。そして、それ以前に渡海していた人達と合流した大祭司達が居住地とした地域(大阪府八尾市竹淵・亀井付近)に【ΙΑΩ(ヤオ)・カミ】(八尾市の語元と成る)の祭祀所(祭祀系レビ氏族による幕屋)を設置する。その移動ルートに於ける哀帝の学者を訪問した部分迄は、【魏略】に記載された内容が参考に成ります。

…以上(追記を終わる)。

 

 

…★【追記】(令和元年/2019年12月27日・金曜)しました~

…「紀元前31年」の時(ヘロデ王の第7年)、ヨルダン西域に位置するQumranを襲った巨大地震に因って、隠れ家的な【旧約聖書・研究施設】が崩壊する。その「31年・数価」に関連付けられて、「イエスは31歳の時」として重刑に当る十字架十字架刑(元始・キリスト教の始まり)に処されました。

…その古代イスラエル国を襲った大地震に対し、予めエゼキエルが予言(紀元前6世紀前半)していた…「【テオファニー】(Theofanía=カミの顕現)である」…と、クムラン宗団トップの人達が定義(マニフェスト=宣言/ベラシト=創世紀元3910年数価が命の語元と成る)した事を受け、極東方面に向け旅立った、その宗団トップの人達が移動したルートに付いては、【魏略】(中国の文献)が参考になります。

 

★【魏略】(三国志㊦巻三十/魏本三十・倭人条)…「倭人」に付いての説明文。その説明文の後に引用されている『魏略』に因ると~特に、「哀帝・元寿元年」(紀元前2年)の時とする記述内容は、後の「王莽政権」に関連しています。つまりそれは、大阪府八尾市の【亀井遺跡】(竹淵地域との境界線近く)から王莽時代(新時代/前漢と後漢時代の中間時代に当る)の【貨泉】鋳造されたお金)が出土しているからです。又、その近辺(大阪)の【巨摩(コマ)廃寺遺跡】、【瓜破遺跡】からも【貨泉】が出土しています。此の事に付いては、郷土史『河内どんこう』(№29/平成元年9月発行)に記載されています。

★【追記】は以上です~

 

クリスマスツリー今日(令和元年=2019/12/25・水曜)は、キリスト教の「クリスマス」です。そのキリスト教の前身が【死海文書】(1947年発見をクムラン洞窟に隠し残し渡来してきた【クムラン・秘儀教義宗団】の教えです。そして、その子孫達が創設したのが【日本(ヤマト)神道】宗教ではありません、律法・カミの大道を整える教義に起因する)でした~。

…その神道を象徴する社殿の屋根に設置されている【千木】(置千木)の形状は、【キリスト】ΧΡΙΣΤΣ=メシア)の頭文字であるギリシア文字の【 X 】キー/数価・千を表す言語)を表しています。そして、その【千木】の発祥地は、紀元前3年に、【タコチ】地域(大阪府・八尾市竹淵)に建立された…神社【竹淵(タコチ)神社】(・400+・600=・1000/千木の語元と成る)の地域でした。

…その竹淵神社の【縁起書】(由緒書)には、日本最古の歴史書とされる『日本書紀』では抹殺、削除されている部分に関する出来事が、当時の現地の現場にいた人達しか知り得ない事が書かれていました。つまり、【ホツマツタヱ】文書(日本書紀の底本に当る)に書かれている…「八尾え退く」…と言う部分が『日本書紀』では抹殺されていると言う事です。それは、「タケヒト(神武天皇の幼名)側の皇軍と、長髄彦(ナガスネヒコ)側の賊軍との戦(生駒越えの戦い)の中で、皇軍の五瀬皇子が肘を射られ負傷し苦戦を強いられた時、皇軍側は戦を八尾地域(サドク系/オニアス氏族・ユダヤ教大祭司達の居住地)へ退いて戦を立て直す祭事(占い事)が行われたと言う内容の事であるが、その八尾へ退いた後の状況は『秀眞伝』(ホツマツタヱ) 文書にも書かれていないので、誰も知りようがありません。然し、その【タコチ(竹淵)神社由緒書】には、抹殺された記事内容の続きの場面に関する出来事が書かれていました。

 

…ちなみに、その【タコチ(竹淵)神社縁起書】(現在は【九・光正寺文書/78ページ】と題する中で八尾市史に保存されています)の存在に筆者が辿り着いたのは、その八尾市に【神武町】と言う地名が存在(今から40数年前/昭和52年・30歳頃に知る)する事を知ったからでした。そして、その【神武町】大阪府八尾市)の地名由来に付いて調べたが解らず長年(67歳~68歳頃)が経過しました。それで数年前に直接八尾市役所へ行って担当の人に訊くと、「情報開示室」を紹介してくれました。そして調べてもらった結果、古来から…「神武天皇に縁がある情報」…に基づき、尚、戦後に於ける新たな番地形式による町名変更の際、【神武町】が誕生したとの事だった。それで…「神武天皇に縁のある情報」…の事に付いて調べてもらうと、ヤット【竹淵(タコチ)神社縁起書】(光正寺文書)の存在に辿り着いた次第です。 

 

…話しを戻せば~

 

…では何故、神武皇軍は八尾地域を経由(初期の策戦では八尾付近の渋川を遡りヤマアト川沿いを進む龍田越えだった)したのかと言えば、それはユダヤ教God(ヤーウェ/YHVH)の別称ΙΑΩ=ヤオ死海文書のレビ記断片・ギリシア文字)を祀る大祭司達が居住地としていたのがカミ名【ΙΑΩ】の祭祀所地域(大阪府八尾市)だったからでした。そのユダヤ教の大祭司とは、サドク系のオニアス四世(紀元前2世紀中頃、エジプトに亡命しJerusalem神殿を摸倣した小さな神殿を建てた)の子孫に当ります。従って、その【竹淵神社・縁起書】(現在は八尾市で保存)は、日本の国宝に値する文書と言う事になります…。

 

…   ↓ ↓ ↓ ←  (クリック)…宜しく…ランキング…

 

      にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ

            にほんブログ村

            ↓ ↓ ↓ ←  (クリック)…宜しく…ランキング…

             
           にほんブログ村にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 八尾情報へ