【伊万里の歌】(全歌詞が判明しました)  | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

【伊万里の歌】(全歌詞が判明しました/全歌詞は最後の処に記載あり

…佐賀県の【伊万里の歌】(作曲・服部 正/作詞・松坂 直美…日本の町)より~

…此の歌の歌詞は、NHkから我が町に贈られたものでした。その事に付いては当時の伊万里広報新聞(昭和31年7月号)に記載されています。歌詞の部分は「調査研究の為」として、伊万里市立図書館の当時の担当(女性)の人がNHk(アーカイブ)から入手して下さいました。然し、歌詞の楽譜の入手ができませんでした。それで、下手ながら【第1番】(メロディー・紹介の為)だけ歌う事と致します~

【伊万里の歌】(昭和31年7月号・伊万里広報新聞クリック・検索 https://www.city.imari.saga.jp/secure/9550/No.27(S31-7).pdf ~

…以上、此の上記動画は、記事掲載(2015年5月・投稿)の年から7年後(2022年1月16日)の此の日に追記として掲載したものです~

 

…【伊万里の歌】(昭和31~33年頃の歌)
 服部 正   作曲  
 松坂 直美  作詞

① ♪…黒ダイヤ(石炭)  幸(サチ)も豊に 
  ♪…まつら富士(腰岳)  
黒髪山や 
  ♪ 「★
みどりこき緑濃)」)  七ツしまじま 
  ♪…朝  ゆう(夕)に  眺めて楽し 
  ♪…栄えゆく  我らの伊万里


★…最初に記事を書いた時は、未だ、【伊万里の歌】の全歌詞は、全く分からない状態でした。それは今から7年前の春頃、伊万里に帰郷した折、伊万里市立図書館の担当の女性の人に調べて頂きました。そしてその経緯に付いての記事を、その年の5月に投稿(2015年=平成27年5月)した次第です。以下、最初の記事と致します~

…此の歌の歌詞(第1番歌詞?)は、私の姉が「佐賀県伊万里市立山代中学校」在学中に学校で習ってきたと言って歌っていたのを、今は「1番の歌詞?」だけですが私はうろ覚えながら時々口ずさんでいます。その後の歌詞(2~3番)に付いて、今年(平成27年)5月の連休時に帰郷した折り、伊万里市役所、又、市立図書館にて訊いたが解りませんでした。然し、伊万里市の図書館の人(女性の人)が、「NHKアーカイブ」で調べてみますと言ってくださいました。又、「昭和31年~33年」(私・小学3~6年生)頃に伊万里市立山代中学校に在学されていた学生さん達なら知っておられるかも知れないので訊いてみますと言って下さいました。

歌詞みどりこき緑濃)」~その部分は忘れていて覚えていませんでしたので、後日、伊万里図書館の担当の方(女性の方)からの電話(大阪の我が家に)によると、「当時の年代頃の人達に訊いて歌詞が解りました」との事。それでヤット「第1番目の歌詞」だけでも完結した歌詞として、私の当ブログに堂々と掲載する事が出来ました。…「伊万里市の図書館の方々、そのせつは本当に有り難う御座いました」~

昭和31~33年頃私が小学3~6年生の時…当時、浦ノ崎(浦ノ崎変電所下の塩浜社宅~追崎付近)の海岸一帯は、その6年程前(昭和25年頃)頃に進出して来た新向山鉱業所(向山炭坑)の坑道工事が始まると相俟って県道拡張工事も始まりました。その県道の直ぐ下の海岸際に我が家がありました。その県道拡張工事に伴いダイナマイト(ハッパ)が使用される度に、その爆発で石が飛ばさ、我が家と瓦製造工場(自営業)に石が飛んできて、その時は祖父を始めとして本家の伯父さんや父母達は仕事を中断し、慌てて干していた沢山の粘土瓦の破損を恐れ、工場の屋内に取り込む事に追われていました。

 

…その数年後には、県道拡張工事の為に我が家埋め立てられる事となり、又、その海岸一帯は炭坑から排出されるボタ(廃埿に混じった黒っぽい石等た)で埋め尽くされていきました。つまり、その汚泥的なボタが塩浜海岸一帯に放出されるに至り、それ迄は海水が透き通っていて綺麗だったが見るも無惨に濁りだし海辺の貝は死滅し魚も釣れなく成りました。此のような状況の中在って我が家(瓦製造業)の仕事も廃業に追い込まれ、立ち退きを余儀なくされました。

…然る経緯を以て、塩浜住宅(
川南工業浦崎造船所関連の社宅)付近の海岸や、沖に見える【七ツ島】が見渡せる少し高い場所(県道の西側)に私達家族は引越しました。其処は海岸線が見える位置にあり段々と海がボタで埋め立てられていく様子か良くみえていました。そんな折、冒頭の歌詞(伊万里市の歌)を中学校から帰ってきた3つ上の姉(次女の征子)が歌っていたのを聞き覚えました。


…後年、伊万里湾の【七ツ島】も破壊(
平地化)され名村造船所が進出(船舶の修理工場/ドック)し、曾ては島だった処が陸地に繋げられ「七ツ島工業団地」と成りました。それで昔の【七ツ島】の面影は無くなりました。従って、せめて【七ツ島】が歌い込まれている此の歌、つまり【伊万里の歌】だけでも後世に残して欲しいと思った次第です。然し、此の歌詞の音譜無いのでリズムの伝え方出来ません。従って、下手ながら「歌詞の第1番」だけ歌う事と致します…

…(全歌詞はブログ最後の処に記載しています)~

♪ く、ろーダイヤー、さーちーも、ゆーたかにー、
♪ まーつーら、ふじー、くろかみやーまーやー、
♪ 
みーどーりーこきー、ななつ、しーまーじまー、
♪ あーさーゆーうーにー、ながめて、たのしー、
♪ さーかえゆーくー、われらの、いーまーりー、


…テーマに掲げている『黄槿(ハマボウ)の花の下で』に言う【ハマボウの木】塩生植物佐賀県の絶滅危惧種に指定)の保護活動に関し、今年の5月の連休時に帰郷し山代町公民館を訪ねて訊いた処、波瀬(ハゼ)の東に位置する小島(現在は陸地に繋げられている)にも以前から生息していたとの事でした。そして現在は小島の海岸際から少し高い位置に移植して保護しているとの事で、私は大変感動しました。

…昔は、波瀬港(花火大会が催されていた)から歩いて小島(古墳が在る)に行けたので山代町公民館(久原駅の南)から歩いて波瀬へ行き、その港から小島に行く事としましたが現在は工場が出来ていて波瀬港から直接通れなくなっていました。それで小島に行くのを断念しました。後で兄に訊くと久原駅(MR線・松浦鉄道駅)の踏切を渡って海側に行けるとの事だった。それで今回は諦め、次も又、ハマボウの花(黄色い花弁の付け根部分は深紅色)が咲く夏に帰郷してから小島の海岸に咲く【ハマボウの花】を見てみようと思っています。然して、今から2年前の夏に帰郷した折、伊万里市役所の環境課へ行って、浦ノ崎海岸付近(川南工業浦崎造船所・跡地)に生息する【ハマボウの木】の保護に付いて訊ねたが、其の時は明確な答えを聞く事は出来ませんでした。だが、今年の5月に帰郷してみると、黒藻下バス停直ぐ東側(旧・川南造船所入口付近)に「塩生植物・ハマボウの生息地」(木の花の写真も貼り付けられていた)を示す内容(佐賀県指定・絶滅危惧種)の立て看板が設置されていました。それで少し私は安心しました。つまり現在、浦ノ崎海岸に咲く【ハマボウの花】とは、曾て在った塩浜社宅(川南造船所の社宅)から200~300㍍ 程南の海岸際に位置した我が家の庭に生息していたが切り倒され無くなるも、その木の種が何十年かの時を経て、尚、埋め立てた汚泥が風化し良い環境状態(防波堤の設置/海水も綺麗に成っていた)に成るのを待って奇跡的に復活した花でした。

…私が小学3年の或日(
担任/手品の上手な吉田先生が家庭訪問で来られた日)の昼頃、学校から帰ってみると、無惨にも其の三本の木(此の時は木の名前は知りませんでした)は切り倒され、更に小刻みに切り刻まれていました。今考えれば、その木が切り倒され埋め立てられたにも関わらず、僅か小さな排水路を伝って、尚、植物が生えないボタ土が風化し普通の土に還元される迄も耐え抜いていたのであった。そして今は、排水路の出口の海岸際に広く根を張り花を咲かせ、その木の種が更に北側に向けて築かれた堤防の内側に添って漂流し、香椎川の出口。そして更にその百メートル程北側(川南造船所跡の海岸/
黒藻下・バス停東側海岸)に根を張って群れを為し夏の間、黄色い綺麗な花(1日で萎れます)を咲かせています

…此の地名に言う【塩浜海岸】を考察すれば、多分、叔父が瓦製造業をしていた付近の海岸一帯は、其の昔「塩の生産地」だったと考えていましたが証拠を見付けるには至っていませんでした。だが此の年(2015年=
平成27年5月)に帰郷し約一週間程、兄(長男で
6歳年上)の家に泊めて貰っていた関係で、生まれて始めてジックリと子供の頃の思い出話をする事が出来ました。その兄が言うには、叔父が【瓦製造】を始める前は【塩・製造】を行っていたとの事だった。そして、長年捜していた塩生産地としての証拠と成るのは、昔(小学3年の夏迄/その後立ち退きで引越する)の我が家の庭(海岸に隣接)に赤くペンキで塗られた鉄骨台上に設置されていた【稲荷・祠(ホコラ)】(祭壇)があった。それで今考えられるのは、我が家の庭に植わっていた三本の黄色い花を咲かせていた木は、叔父が何処からか持って来て植えた事が解りました。

 

…私が3歳に成った頃(昭和25年頃)の事、此の三本の【ハマボウの木】の正式な名称を誰も知らなかったが…「海水と真水とが混ざる付近に生える」…と、「叔父が言っていたのを聞いた事が在る」と言った父の言葉をフト思い出したのは、私が42歳(平成元年)に成った或日の事でした。それで早速、羽曳野市立図書館に行き植物図鑑を広げ、「潮水と真水が混ざる海岸付近に生息する樹木」に付いて調べてみると、ヤット、此の木の正式名称が【ハマボウ】だと言う事を突き止めました。それは、此の木の名前が知りたいと真剣に思った時(3歳に成った頃)から約40年程の月日が経過していました。

…【伊万里の歌】に言う【伊万里富士】(
腰岳)とは、我が国の石器時代に於いては重要な刃物や武器として用いられた黒曜石が産出された山で、又、松浦富士(標高487㍍)とも呼ばれ伊万里市街地から西方に位置しています。そして、それは佐賀県伊万里市の有田川下流右岸に在る円錐形を有し昔は火山(黒髪山の手前に位置す)活動をしていました。

…旧石器時代(紀元前1200年程前)に続く縄文時代(紀元前300年程迄)でも用いられた石器の中でも伊万里の腰岳から産出した黒曜石(石器)は、西北九州一帯から出土(宮崎をも含)しているが、驚くべき事は南朝鮮(韓国)の釜山市東三洞貝塚や、慶尚南道上老大島遺跡からも発掘されている事です。此の事を考察すれば、先史(日本国家成立以前/紀元前1世紀末頃)に於ける我が伊万里の地域は、既に中央政府との太い繋がりもっていた事が考えられ、その証拠と成るのが「甕棺墓」の存在であります。従って、此処で重要な事は、伊万里に於ける【大型・甕棺墓】が発掘された事。そして尚、前漢時代、つまり、今から約2000年程前(BC1世紀末・王莽政権迄)に製造された【細線式獣帯鏡片】他「ガラス製管玉・碧玉管玉・鉄器」等の副葬品も発見されている事にあります~


…【伊万里の歌】全歌詞が解りましたので、その歌詞を紹介致します…

 

  題名【伊万里の歌】(日本の町 
                     服部 正…作曲  
                     松阪 直美…作詞
1… くろダイヤ さちもゆたかに まつらふじ くろかみやまや
   みどりこき ななつしまじま あさゆうに ながめてたのし
   さかえゆく われらの いまり

2… うたごえは けうものどかに あきまつり トンテントンや
   ぜにだいこ はやしのおとや こがねなす いなほはゆらぐ
   ゆめのさと われらの いまり

3… めもあやな いろなべしまは いまもなお きょうどのほこり
   たちばなの ゆかりもふるく のにやまに みかんはかおる
   うるわしき われらの いまり

 

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