日本最古的【浦ノ崎・佐代姫塚】(史跡申請) | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

【佐代姫・塚】は「日本最古・史跡塚」で在る

<<   作成日時 : 2015/05/10 00:23  

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…我が国、つまり、日本国(ヤマトクニ)最古的「佐代姫・史跡塚」(佐賀県・浦ノ崎)に言う「史跡」とは、日本(ヤマト)国家成立以後の史跡の意を意味表す表記言語で在る。然して、其の年代に関しては、現在の世界暦(西暦年)に対比出来る事が求められます。従って、西暦年を用いる西洋諸国と我が国との暦の接点年を、先ず、確定させる必要が在る。

…「天文12年(1543年癸卯・西洋側の記録では1542年と記す)、種子島時暁(タネガシマトキタカ)が、ポルトガル人から鉄砲を購入(金2000両)した」…と成す年。然るに、此の年が我が国に於いて、西域はヨーロッパ人との直接的な最初の歴年接点年に当っている。

…従って、此の年をヨーロッパ人との接点基点年と定め、我が国最古の歴史書とされる『現存・日本書記』(写本伝承)記載の年代との合致点を検証しなければ成りません。然して、皇暦在位通歴年(神武天皇即位1年・辛酉)に始まる皇歴(暦)年に西暦年に当て嵌めるとすれば、此の「天文12年癸卯」から過去に遡る作業に於いては、干支を用いれば割と簡単で在る。

…【日本国・開闢神話】に始まる『現存・日本書記』を見れば、「神武天皇即位1年目・辛酉年」に皇暦(歴)が始まった事として当て嵌められている。然して、其の歴年史は、後の『続日本紀』を経て、尚、其の後に於ける歴年史(三代実録史)が存在する事を以て、それらの歴年史をベースにして明治時代迄に繋げられている。其の明治の始め頃、我が国は当時の世界暦(西暦年)を採用する事と成り、西暦年を以て、我が日本の歴史を対応させる方式を確立、且つ、旧暦の併用を以て、我が国の暦は現在に至っている。

…では、『現存・日本書記』の何時が、西暦1年目に当たるのかと言えば、皇暦から西暦年を差し引けば良い。つまり、「皇暦660年目・辛酉」(垂仁天皇30年)が西暦1年目に当る年に合致するので在る。従って、其の逆算、即ち、「天文12年・西暦1543癸卯年」(種子島・鉄砲伝来年)の年から、過去に於ける干支年を遡れば、つまり、【如是院年代記】、【二中歴】に記す干支年、又、【海東諸国記】等の干支年を以て、遡れば、其の西暦1年目は、「垂仁天皇在位30辛酉年」に当るので在る。

…然して、『現存・日本書記』が書き換えられる以前の文書、即ち、【逸書・日本紀】(養老4年・西暦720年)が奏上された年、以前の時として、其れは「神功皇后39己未年条」の記述内容に対し、「魏志倭人伝・卑弥呼」(明帝景初3年6月…年号鏡授与に関する記事)に対応する説明文もが付記されている。従って、此の時点で、既に、『現存・日本書記』は、【幻の西暦1年目】に対応した説明文を付記した事に成っているので在る。

…【幻の西暦1年目】…の意とは、つまり、西暦年がローマキリスト教に因って最初に設定されたのは、6世紀(563年)に入ってからで在る。其れ迄は、ディオクレティアヌス帝紀元(313年を元年と成す暦…ローマン・インディクション)が用いられていたのてあった。然し、此の「キリスト紀元暦年(532+満30歳=西暦紀元発生年563)に在っても、其の施行年は後年に擦れ、其れは「10世紀後半」(末)頃に成って、ヤット、西域のヨーロッパに「キリスト紀元年暦」が定着したとされている。従って、ポルトガル人が種子島に漂着(ヨーロッパ人の渡来)した年代(16世紀)より、其れ以前の『日本書紀』の年代に遡れば、既に、我が国に於いて、此処に言う【幻の西暦1年目】に対応した暦年が記述されていたので在りました。

…然るに、「垂仁天皇30年辛酉」を、「幻の西暦1年目」と過程し、以て、西暦年に対応する年代を考察すれば、神功皇后(ジングウコウゴウ)1年(元年)目は、「幻の西暦201年」に当るので在ります。従って、神功皇后39年条の記述内容、即ち、「魏志倭人伝・卑弥呼の年号鏡年」(景初3年・西暦239年)にも西暦年が合致しているので在る。

…当時(欽明天皇期・頃)の歴史編纂者は、紀元前1世紀後半頃に移動してきた【ダマスコ契約・秘儀宗団】(Qumran・Sect)が設定した、【メシア来臨・祭儀方式】(創世記年)に起因する【メシア・来臨暦】の施行方式を把握していたと言う事に成る。従って、此処が、近隣的諸外国との交流に於いて、且つ、歴史的年号を特定する年号鏡、及び、其の双方の国書内容とが合致(神功皇后39年条)する最初の基点年と位置付ける事が出来る処と成る。

…神功皇后(紀)以降、欽明天皇即位前に於ける、「宣化2年」(西暦537年)に在っては、大伴連狭手彦が朝鮮半島へ征船するに於いて、其の史実を物語る遺跡(佐代姫・塚)が、現在に至っても存在し続けている。

…【山代町史】(佐賀県伊万里市山代町史)の編纂に携わった金子義弘氏に訊く処(筆者帰郷3日目…2015/05/01/金曜)に因れば、其の【佐代姫神社・伝承】は、【青幡神社】(伊万里市)の神主が、其れ以前に伝承されていた文書をガリ版(昔の複写方式・コピ-機器の前身)で記載された文書内容だったのを、其の読みにくさを解消する意に於いて、其の金子義弘氏が、パソコンを用い、文字を活字体に変換し、【山代町史】として再登録されたとの事でした。

…従って、此処に言う【佐代姫・塚】の「佐代姫神社・伝承」とは、「宣化2年」(西暦537年)当時の現場の漁師の人達、且つ、松浦佐用姫の父親(日下氏?)等しか知らないような状況証拠が伝承されているので在ります。然るに、其の旨を、その日、山代町公民館に行って説明して来た次第で在ります。つまり、現在迄は、伊万里市山代町の【佐代姫・塚】に於ける【佐代姫神社・伝承】は、民間伝承の域を出ない物語等として伝えられていましたが、其れは違うと言う結論に至り、私は、此の日(2015/05/01/金曜)、【佐代姫・塚】に対し、【史跡登録・申請】の趣旨を伝え、「山代町市史編纂委員会委員長」の金子義弘氏の了解の意を頂いた次第で在りました。

…以下【追記】(5月13日・水曜)…尚、現在の唐津に於ける佐用姫伝承とは、此処、【浦ノ崎・佐代姫塚】設置年から、約200年をも年代が経過した後、且つ、『逸書・日本紀(ギ)』奏上年(養老四年・720年)以後に於いて、山上憶良(太宰府に赴任していた)が和歌の題材として詠んだ処に起因する伝承物語で在ります。然して、尚、『肥前風土記』(天平風土記)が出来た年から更に年を経て、【和歌集】(大伴家持・編輯)が発見されるに至った。然して、其の出処の過程は、当時(天平勝宝9年・757年)、藤原仲麻呂の専横に対する「反・仲麻呂派」が、立ち上がろうとした矢先、一網打尽に捉えられ、此の時、「反・仲麻呂側」に居た大伴家持の邸宅から発見されたされるのが、【完成的・和歌20巻本】で在った。然る後、此の和歌集は『万葉集』と称され、公的に出回り出し、即ち、八世紀末頃以後、其の『万葉集』の和歌の内容に因んで創作されたのが、此処に言う「唐津版・佐用姫悲恋物語」で在りました。

…従って、【浦ノ崎・佐代姫塚】(佐賀県伊万里市山代町立岩 に存在)とは、【唐津伝承・佐用姫悲恋物語】創作年より、過去に遡る事、少なくとも220年以前の昔の史実に基づく史跡に値し、数少ない貴重な塚(墓)で在ります事、然りで在ります。


…【佐用姫歌】(山上憶良)3首…「①i②③天平2年(730年)7月11日詠む」。
山上憶良…《松浦佐用姫歌『万葉集』巻五・第868番》…「麻都良我多(マツラガタ)、佐欲比売能故何(サヨヒメノコガ)、比列布利斯(ヒレフリシ)、夜麻能名乃尾夜(ヤマノナノミヤ)、伎伎都都遠良武(キキツツヲラム)」。

山上憶良…《第869番》…「多良志比売(タラシヒメ)、可尾能美許等能(カミノミコトノ)、奈都良須等(ナツラスト)、美多多志世利斯(ミタタシセリシ)、伊志遠多礼美吉(イシヲタレミキ)」…阿由都流等(アユツルト)。

山上憶良…《第870番》…「毛毛可斯母(モモカシモ)、由加奴麻都良遅(ユカヌマツラヂ)、家布由伎弖(ケフユキテ)、阿須波吉奈武遠(アスハキナムヲ)、奈尓可佐夜礼留(ナニカサヤレル)」。


…次の【佐用姫歌】は、後の人の歌?。
…《松浦佐用姫歌『万葉集』巻五・第871番》…「得保都必等(トホツヒト)、麻通良佐用比米(マツラサヨヒメ)、都麻胡非尓(ツマゴヒニ)、非例布利之用利(ヒレフリシヨリ)、於返流夜麻能奈(オヘルヤマノナ)」。 

…以上…此のブログ記事は、 BIGLOBEのウェブリブログ:http://erusaremu464.at.webry.info/ 記事の貼り付けです。

…以下【追記】(平成26年・2014/05/10/日曜)…
…帰郷した5月4日(月曜)は、【佐代姫神社】の祭礼日(年2回・12月4日)だったので、神主さんが神社に来られ、3個所(神社・佐代川・佐代姫塚)に対する、祝詞、及び、お祓いの儀式を見させて頂きました。其の折、【佐代姫神社】の社宝(秘密)の存在に付いて神主さん訊くと、「現在、調査中」との事でした。
 
…尚、【佐代姫神社】の鳥居は「第2・鳥居」で在り、最初的「第1・鳥居」とは【佐代姫・塚】(浦ノ崎・社会病院の中庭に存在)の鳥居の事だと、先述の金子義弘氏が教えてくれました。其の「第2・鳥居」の建立年は、「寛文12年」(1673年)の銘が在った。又、其の【佐代姫神社・第2鳥居】には、何故か、「防州平尾の漁師名の記載在った」(現在・山口県柳井市大字余田字平尾?)とされています。

…此の山代町史に因ると、「寛文12年9月に改元」(寛文12年9月21日⇒改元⇒延宝元年)が在り、其の改元後(1673年)、難工事だったとされる「田代池」(城山の西側)を、馬渡百郎佐衛門が完成(久原の水田、水道水の供給)させたとも記載されていた。

…然る意を以てすれば、明治時代以前、既に【浦ノ崎・佐代姫神社】は、既に建立(鳥居の存在)されていた事に成る。従って、現在のヤシロは、村社として明治時代に再建(明治31年)されたと記されていていたので在るが、其の事が意味する処は、【浦ノ崎・佐代姫神社伝承】は、我が国の先史(宣化2・西暦537年)の歴史的史実を、「文書・伝承」を以て、継承されていたと解する事が出来るので在ります。

…其の後年、白村江(天智2・663年)の戦いで破れた後、唐の侵攻を恐れて、「対馬、壱岐、筑紫」に防人と烽(トブヒ)が設置された。尚、大宰府では直接的防衛の為の水城(ミズキ)を築き、唐の侵攻に備えた。又、筑前には大野城、そして肥前に基肄城、肥後に鞠智城、対馬に金田城、長門に長門城、讃岐に屋嶋城、大和に高安城が築かれ、天智天皇は難波の都を内陸部の大津に遷都(667年)した。従って、九州北部に於いては、防人(常時防備兵)の他、イザ、と言う時は地元(九州北部)の兵を何時でも動かせる体制が整えられていたので在る。

…因みに、『現存・日本書記』に因ると、【壬申の乱】(672年)の時、筑紫の大宰(オオミコトモチ)で在った栗隈王と其の二人の子供(三野王・武家王)達が言うには…「筑紫国は元々辺境を外敵から守る事を任務としている」…等の意を以て、国内の戦に筑紫の兵を動かせない趣旨を佐伯連男伝え、大友皇子側に味方せよとの催促的誘いに対し、命を賭けて断ったので在った。つまり、日本国の地形上、筑紫近辺の兵隊には、其のような防備役が任されていたので在って、大伴宿禰旅人も筑紫の太宰府(727年)に下っていたので在った。然して、其の前に太宰府に赴任していた山上憶良は、『逸書・日本紀(ギ)』(養老4・720年奏上)に記載されている「神功皇后・紀」(先史)、及び、「大伴連狭手彦の征船」(宣化2・西暦537年)記事に起因する和歌(3首)詠んで、其の和歌を、筑紫に於ける歌壇形成の祝い歌として、大伴宿禰旅人に送ったので在った。

…然るに、第一回遣唐使派遣(推古22・613年)に始まり、其の継続的遣唐使派遣に因って、唐からの脅威が少しずつ薄らいだ此の頃から、筑紫周辺に於いては、神功皇后の朝鮮半島進出(新羅攻略)に始る、大伴連狭手彦の征船に纏わる物語。其の物語に伴って、神社や寺院が新に設置されていったので在った。然るに、唐津の【佐用姫・悲恋物語】も、然りで在る。  

…然し、伊万里市山代町の【浦ノ崎・佐代姫塚】に起因する【佐代姫神社・伝承】は、其の『万葉集』(八世紀後半)記載の「唐津・佐用姫歌」(山上憶良)が出る年よりも、其れは200年以上もの昔の歴史的痕跡を物語る塚として、其の史実年の時を以て設置されていたので在りました。