『日本(ヤマト)民族学』立ち上げ構想…【№ B】 | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…此の文書は『日本(ヤマト)民族学』立ち上げ構想…【№ A】文書(2013/05/29/佐代姫伝承関連ブログ記事の修正記事)と対を成す文書と致します。つまり、「2013/05/29/佐代姫関連記事」を修正していましたら、知らない間に規定文字数(4000文字)をオーバーしていて保存出来なく成り、不完全な儘(ママ)に投稿されています。従って、文書を半分に別け、新た成る【標題】(記事タイトル)…《『日本(ヤマト)民族学』立ち上げ構想…№ A】。そして、№ B】》…と別けての番号を以て、新に再度(二部↓↓↓に別け)、投稿致しました。
№ A】ブログのURL→  ( http://linkis.com/amba.to/NnXS4 )  ドラッグ検索…。


佐代姫)・神社佐賀県伊万里市山代町…浦之崎に存在する)は、日本史に於ける【ガラパゴス的】位置に在ります。然して、此処に言う…《浦之崎の佐代姫》伝承…とは、我が日本史の中の【先史】(奈良時代・古代史以前)的時代に於ける「宣化2年西暦537年」条に記載された、「大伴狭出彦・朝鮮半島への征船」が、史実で在る事の裏付けに値する伝承で在ります。つまり、我が国最古の歴史書、即ち、【日本紀・ニホンギ ← 逸書】(養老四年・720年に奏上された文書)に記載された対外国(古代・朝鮮半島情勢)に関する事項を証明する史跡と致しましては、此の浦之崎佐代姫塚が我が国最古の史跡で在ると言う事で在りますが、如何せん辺鄙(ヘンピ)な地域に在っては、其の史跡伝承は現在に至るも埋もれた儘(ママ)と成っているのが現状で在ります。

【佐代姫・塚】は、
辺鄙(ピ)な地域(立岩 …字・浦之崎)に在っても、尚、現在(2014年10月22日)を以て、「1477年間」を経るも、【 ⇒ 村社】(は明治時代の建築)等に関する祭事(供養)等は継承され、脈々と今に、其の「悲恋的伝承」を今に伝え残してきているので在ります。然るに、現在に於ける政治の変革に起因する動向を注視すれば、【平成26年9月3日・第2次安倍改造内閣】に於ける…まちひとしごと創生本部】(地方創生本部が発足した処に、【我が村興し】のチャンスかと私(筆者)は思う次第で在ります。

…思えば、我が家の側に生息していた希なる【黄色い花】を沢山咲かせていた木(3本)が、小学3年生の時(昭和30年)の初夏の或日(
担任の先生の家庭訪問の日)の事、昼迄で学校授業を終え家に帰ってみると、無惨にも切り倒され、細々に切断(抹殺)されていたので在った。そして、故郷の綺麗な海岸も、次第に炭坑のボタ(泥廃土)で埋め尽くされていった。従って、我が家も立ち退きを余儀なくされ、我が家の前に広がっていた綺麗な海水の海岸が湾曲する先端に位置する【高尾ノ鼻】(岬的小山)は、現在、無惨な姿と化している。「そんな、我が故郷を蘇らせたい、其の一心で生きてきた思いを込め」、去年(平成26年3月)、在る事を計画した次第でありました。其の実行に向け、其の年(平成25年)には、始めて二度、帰郷し、其の計画を在る程度、具体的な構想として纏める事が出来ました。其れから暫くして発表されたのが、政府に因る
地方創生・政策】で在った。此の時、此の政策を利用すれば、何とか、其の計画的、我が夢が叶えれるような予感がしてきた次第在ります。

…話は元の【佐代姫塚】の史実説に戻せば、「大伴狭出彦・朝鮮半島への征船」の年から、およそ二世紀程(約200年)の歳月を経た頃の歌、即ち『万葉集』にも記載された「
松浦佐用姫歌万葉集巻五・868)を以て成り、更なる後年に於いて、多くの人達に知られる事と成る。然るに…《筑前司・山上憶良(660~773
》…の、其の佐用姫歌は、其の前の…《太宰府師(ソラ)・大伴宿禰旅人・松浦河に遊びし序》…に続く歌に詠まれた松浦玉島川に鮎釣る歌に対する返歌的な和歌で在った。然して、此処が【サヨヒメ伝承】の発信元(現在の唐津)と成り、世に言う悲恋物語として世間にも広まって行ったので在る。尚、此の歌に起因する【サヨヒメ・悲恋物語】が脚光を浴びるに従って、其れなりの地域的(海・山・池等)伝承が創作され、尚、各々の観光施設等も増えてゆく事と成り、現在に至っている。然し、佐用姫の亡骸発見に関しては、万葉歌人の歌を根拠と成すも、「サヨヒメの絶命に至る迄の背景的情報」は見出す事は出来ません。従って…《現在に言う唐津 ⇒ 松浦発信元・サヨヒメ絶命状況伝説》…とは、『万葉集』(8世紀後半)に記載された【サヨヒメ】を題材と成す和歌(定型詩)に感化されて成る、「後付的創作伝承」だったと言う事に成りまする。

…【サヨヒメ・遺体発見伝承】(唐津発信伝承)に対し…《8世紀後半以降、新に創作された後付説》…で在ると、此処に唱える根拠と致します処は、筆者(ペンネーム・秀真 太郎)が生まれ育った地域、即ち、【山代町史】(佐賀県伊万里市)に記載されている浦之崎佐代姫塚伝承記述を証明する【佐代姫・塚】『現存・日本書紀』宣化2年・西暦537年条の記事に関連する)の存在確認に在ります事、然り。

…現在に言う【松浦佐用姫悲恋物語】とは、唐津に於いては【伝承】であろうが、我が故郷(浦之崎)に至っては、
歴然(宣化2年・西暦537)とした【史跡】(佐代姫・塚)に基付く歴史的悲恋物語として位置付けされねば成りません。然して、今(2014/10/22/火曜・現在)から過去に1477年もの昔に遡れば、【松浦・サヨヒメ】と言う御名に行き着き、其の【松浦・サヨヒメ】の御名は、現在の天空を仰ぎ見れば、「実際的には肉眼では全く見えない」ので在りすが、小惑星新惑星発見・三個の中の一個)の御名に採用され、宇宙の中で光り輝いているので在ります。

…【サヨヒメ】(松浦佐用浦之崎佐代姫の名称(御名)が、【小惑星・宇宙の星】(新星の発見に因っての名称(呼称)として採用されている事を記した【ブログURL】は→ ↓ ↓ ↓ ← (此処をクリック・ドラッグで検索
        …( http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11568405508.html )…【七夕&佐代姫塚】…


…然るに、此処に言う【浦之崎佐代姫神社】に関しては「4月のブログを参照されたし…其の【ブログURL】… ⇒ http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11512068673.html (此処をドラッグ・クリックして検索)。

…古代…「肥前(唐津地域)に於ける佐用姫伝承」創作物語とは、実際の史実年(537年)からは、「193年後」(天平2年・730年)に至り、【山上憶良】が謹啓した歌を以て、以後、新に創作されて成る「創作伝承物語」で在った。然して、【日本紀(ニホンギ)】(720年奏上・此の原本を書き換えたのが『現存・日本書紀』で在るる)、及び、『風土記』(721年の文書)には、此の【佐用姫】(宣化2年・西暦537年)を題材とした和歌に関する記述は在りません。

…然るに、「8世紀前半頃」(
730年頃)、【筑前守・山上憶良】(歌人でも在る)が詠んだ歌に端を発する、「唐津…松浦発信・サヨヒメ伝承」は、其の後の各々の創作物語が創作されるも…《サヨヒメの絶命に至る背景的状況、及び、塚を特定する史跡》…は存在致しません。何故かと言えば、サヨヒメの遺体」は、現在に言う「伊万里湾・立岩 (浦之崎)」の、或川(現在は佐代川と呼ばれている)の川口(此の史実に基付いて現在は佐代川と呼ばれている)へ流れ着いていたからで在りました。然して、【サヨヒメ・悲恋物語】の伝承的発端は、【山上憶良】が筑前守(神亀三726年)に任じられ、其の「4~5年後」頃、【大伴宿禰旅人】が、太宰府師726年頃)として着任した事と関連する。因みに、此の両人は、歌壇を形成したとされている。然るに、【山上憶良】が、「大伴氏族の祖先」の事を、歌の題材として歌を詠んだ。其の、【松浦サヨヒメ】の歌の後、【大伴宿禰旅人】は、自分の祖先の史実(百濟救援に赴く)に関する伝書に感化?されてかは定かで無いが、書簡に因れば、【松浦玉島川】を題材に、歌を詠んでいる。然る後、【山上憶良】は、最初の佐欲比売】(サヨヒメ)の歌を詠んだ。其れ以後、『肥前風土記』(逸文)、他、「最々追和歌」との記述を以て「四首・合計五首の佐用姫和歌」が残されていて、其の全ては、山上憶良の歌とされている。然るに、其の最初の一首を下記に記します。

…☆「松浦県佐用姫の子が領巾(ヒレ)振りし山の名のみや聞きつつ居らむ」(麻都良我多 佐欲比売能故何 比例布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎伎都都遠良武」…【万葉集第868】…【筑前国司・山上憶良】(730年・天平2年7月11日・憶良謹敬す

…此の歌に続く詠み人不明的五首の内の最初の【佐用姫の歌】(第871番)も次に記すと致します → ☆遠つ人、松浦佐用姫、夫恋に、領巾振りしより、負へる山の名」(得保都必等 麻都良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈…【万葉集第871】(肥前風土記・逸文)。


…因みに、『肥前風土記・逸文』では、「サヨヒメ」に対する漢字表記では、『万葉集』に記す「サヨヒメ」表記に対し、【①③⑤佐欲比売】サヨヒメ)と、【②佐用比米】、【④佐用嬪面】の三通りの表記が用いられいる。 而して、我が日本史に於ける、其の古代史以前を言う処の、つまり、先史的に位置付される年代、即ち、『現存・日本書紀』に記載されている「宣化2年」(西暦537年)の条を見れば、「大伴狭手彦…朝鮮半島への派遣(征船)」(百濟救援)等の事が記載されている。然るに、当時(6世紀前半頃)に於ける中央政府に在っては勿論の事であろうが、【浦之崎・サヨヒメ塚】の設置に関する情報は、其れから約200年の年を経て成る「筑前…太宰府師(ソラ)・歌人」の耳には届かなかったのは仕方がない事で在るが、何故、【山上憶良】は此の【サヨヒメ伝承】を知っていたのであろうか?…不思議で在る。

…然して、現在風に言えば、【ガラパゴス的・地域】(
現在地佐賀県伊万里市山代町浦之崎)に位置する佐代姫・】に関する伝承は、「当時(8世紀前半頃・730年)の筑前の歌人達の耳に届くはずもなく」、尚、現在に至っては、我が【山代町史】(伊万里・市史編纂室に保存)に記載されているにも関わらず、我が市町村の有識者の少しの人達を除けば、其の住民の殆どの人達も、此処に言う【サヨヒメ・塚】の由来を全く知らないのが現状です。

…【佐代姫・塚】…「別ブログ・URL」…(別ブログURL 
↓ ↓ ↓ )…

小惑星の名称【佐用姫】(七夕に寄せてのブログ)
 erusaremu464の投稿 (http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11296847539.html
テーマ: (参考ブログ…[佐代姫]伝承を記載しています)

…「伊万里市山代町史」(佐賀県伊万里市山代町浦之崎)の【佐代姫神社伝承】に因れば…「此の確乎(確固?)、不可働、之、遺跡ハ、我、西松浦郡ノ西端ナル、山代ノ立岩沿、海中ニ在ルモノニシテ、往昔ヨリ、専ラ土人ノ口炙スルトコロヲ聞ケバ、該遺跡ハ、我々祖先ガ、一日、海辺ニ至リシニ、不圖(図)一個ノ、小沿岸ニ、漂着セルヲ見ル、因テ、怪シミ、直チニ、彼ノ、船辺ニ至レバ、内ニ一人ノ婦人アリテ、頭ニハ、漆黒ノ如キ、髪ヲ長ク垂レテ、背ニイタリ、身ニハ、美麗ナル服ヲ着シ、其相貌(ぼう)、如何ニモ、普通ノ人ナラネバ、義捨去ニ忍ビズ、終ニ、此地ニ葬レリ、跡(後)ニシテ聞ケバ、之レ、タダシク、佐代媛ノ遺体ナリト、依テ、ココニ石碑ヲ立テ、以テ、其霊、地魂ヲ、慰メタリト、之ニ依テ、之ヲ考フレバ…伝々(後文略す)」等と記されていております。

…此の、【佐代小夜姫神社縁】(…昭和13年8月26日)の内容は、即ち、我が国の先史(奈良時代以前史)に於いては、中央政府が関知出来ない程の辺鄙な地域に在って、埋もれし、我が日本国の歴史の痕跡を止める遺跡()で在ると言う事で有ります。

…以上…「佐賀県伊万里市立岩 ・浦之崎」に存在する【佐代姫・塚】に起因し建立された、其の【佐代姫神社】(村社)の伝承に関しては、『山代町史』(伊万里市・市史編纂室)に記載されています。

…以下【追記】(平成26年・2014/10/22/火曜)…

…以上の記事(去年…平成25年・5月29日)を書いてから、其の後、【桜・植樹】の計画の話が進まぬ儘(ママ)、1年半をも少し過ぎた「今年10月19日~20日」、【第37年度・山代中学校の同窓会】を、故郷(伊万里市)では無く、始めて近畿に於ける【神戸・開催】と相成りました。其の同窓会のメンバーの人達に【桜・植樹】を以て…《【浦之崎】の町を始めとして【山代町伊万里市を桜の町とする会】》…的、計画案を提案した処、地元で活躍されておられる方々も、此の計画案に対し、大いに力に成ってくれる意志を示して下さいました事、本当に嬉しく思いました。従って、最初に於ける【桜の苗木・植樹】珍しい品種・3種類)を行う場所が、具体化して来た次第で在ります。然るに、【植樹の季節】は、来年の冬(1月~3月頃)、と、大方、決めていますが、果たして、此れはどうなるのか、予断は禁物で在ります。