那珂通世説(讖緯説)の「西暦…起元元年・平帝元始元年」は「辛酉」年では無い | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!



…「讖緯説(辛酉革命説)」の「那珂通世(嘉永4年・1851年~ 明治41年・1908年)」は、紀元前に於ける「秦(秦始皇帝)の二十六年(前221年・庚辰)にして、我が起元四百四十年なり」(221+440=661)と記述している。又…「哀帝元年(紀元前6…乙卯年)、在位六年(紀元前1年…庚申)にして崩ず」…等とも記す。尚、此の、「那珂通世」の『支那通史(未完)』(全三冊・和田清…訳者)の文面の続きを読むと…「太皇太后使を遣して馳せて莽を召す。薫賢自殺す。莽を以て大司馬と爲し、尚書の事を領せしむ。(中略す)」…等と記述し、更に、続く、此の記事内容を見れば…「此の年は平帝の元始元年(庚申)・我が紀元六百六十一年西洋紀元元年なり」と記述している。然し、【年・干支】は全く記載して無い。然るに、此の『支那通史』(那珂通世の著書)には、西暦年に言う「紀元前・後」の起点的【紀元・元年】(紀元前後の歴年起点数値)に対し、【年・干支】が、何故か?全く記述して無いので在る。従って、何故?…「平帝元年が【辛酉・年】だと特定出来るのか」…と言う事が不思議で仕方がありません。然るに、実際的には、此処の部分が一番肝心な処なので在る。此処の処の答えを無視しては、「讖緯説辛酉革命)」に言う【辛酉年革命説】は絶対に成り立た無いので在る。

…ハッキリ言えば、此の「平帝・元始元年」に対し、「辛酉」と、安易的な発想で以て設定された「那珂通世説」の「讖緯説」は、全く、其の根拠の体を成していないと言う事で在る。然るに、此の「平帝」は、我が自説を以てすれば「庚申」(前1年)に成る。尚、「中国学芸年表」を見れば、「平帝元年」に対し、「辛酉」を当てているが、其の前年、つまり紀元前1年(-庚申)に対しては「空位」(現実的には空位は存在しない)的な空白としている。而して、他の文献、つまり、『中国史①』(世界歴史大系・山川出版社)を見れば、私が計算した通り、「平帝元年」に対し「庚申」(紀元前・1年)を当てていて、我が自説と全く同じ答えが記載されていた。然るに、此の「1年的誤差」(計算方式)が物語る、其の答えとは、我が日本国(元始・ヤマト時代)に、其の起元(『秀真伝』)が在る【年・干支…計算方式】を中国がパクリ(盗んだ)、古代中国の歴年史に対し、元来は記載していなかった【年・干支方式】を、無理に取り込んだ結果、炙り出された結果の答えが、其の、「1年の誤差」と言う事で在ります。従って、我が国には「讖緯説」、乃ち、「辛酉革命」を理由としての「紀元前・660」(紀元前と言う考え方は古代期には存在しない)説は無かったので在る。従って、「那珂通世説→讖緯説」は「デツチアゲ説」だったと言う事で在ります。

【追記】(平成26年・2014/2/1/土曜)…古代朝鮮半島の【年・干支】起元(紀元ではない)に付いて…
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…此処に言う【年・干支】とは、『現存・日本書紀』(偽書)の「神武天皇」から始まる皇歴の中に記載され「紀年方式」の一つで在るが、何故、其の皇歴以前の「日本神話」の中に、其の【年・干支】が記載されていないのかと言う事に付いては、我が国の文献史学者達は無視しているのが現状で在る。従って、其の、【日本史→律令以前史】(神話を含む)を無視した態度は、我が国に於ける文献史学者としての体を成しておらず、だから、『日本紀』(ニホンギ)に記載されている…「神日本磐余彦(後の神武天皇)」の、東征(神武天皇・45歳)の時として記載されている「179萬2470年を経て…」等と成す、其の「天文学的数値」に対しても、我が国の文献史学者達は答を見出す術を知らないので在る。

…然るに、此の【年・干支】とは、我が国に於ける最古的【古文献】に当る『秀眞伝…ホツマツタヱ』文書(昭和41年・1966年に再発見された)に記載されている【天鈴暦】(アスズコヨミ)に於ける暦年数値が、【名文抄】(続群書類従書)に記載、保存されているにも関わらず、戦後(マッカーサー政権以後)の我が国の文献史学者達は、其の、紀年方式で在る処の、其の数値、つまり
、【179萬2470】に行き着く迄の【神代・通年紀年方式】(天鈴暦)に因る数値(『神道五部書・倭姫命世記』)の数値をも無視する態度は、【文献史学】を放棄したに等しいので在る。然るに、其の数値を無視する態度は、【逸書・日本紀(ニホンギ)】を編纂した人達、尚、其の後年に至っては、『群書類従書』(続編も在る)を作成した人達に対し、失礼で在る。而して、話を元に戻しますが、【殷】(中国の文明では在りません)が開発し用いていた【日・干支】計算方式を、其の後の「西周(武王・前1020頃)」が【殷】を滅ぼし、【日・干支】(元来・通年記載方式では無く日月を計算するのに用いられていた)を、更なる後年に於ける暦年的中国(秦・始皇帝)等が取り込み、尚、其の後年(後漢時代・以後)に至っては、我が日本国が用いていた【ヱ・ト】(天鈴暦・【ヱト→兄弟・紀年方式】)を、バクル(盗む)事を以て、其の、【60年・循環紀年方式】(天鈴暦・紀年方式)の数値単位を、中国の【日・干支方式】に応用させ、【年・干支方式】として取り込んだので在った。然るに、我が国に於ける先史的、歴史を考察すれば、「ミマナ国」(任那・崇神紀に記載在り)の条に記載された、「意富加羅国(カラクニ)」、乃ち、其の国とは、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文献に因ると、「ツノガアルヒト」(【角ある人】)と言う国の事と記載されていて、其の国が、後に言う【ミマナ・任那】の国の事で在る。従って、我が国の【ヱト・歴】(兄弟)に因る紀年方式が、中国にバク(盗む)られたのは此の頃以降だったと私は考えられます。

…然るに、近年(昭和46年・1971)、朝鮮半島(公州市・宗山里古墳群)から発見された【武寧王陵・誌石】(百済の王陵)に刻まれていた「癸卯年(523)五月七日壬辰崩…」の、其の【年・干支】は、我が説を裏付けるもので在るが、尚、【好太王碑】、及び、『百済記』然り、此れらの碑文の中の【年・干支】は、古代(日本史では缺史八代的先史時代に当る)に於ける我が日本(倭国)との交流、乃ち、朝鮮半島諸国(任那・百済・高句麗・新羅・等の国々の意)と倭国(日本国)とに関する文書に関しては、お互いの歴年の一致を図る意に於いて、【倭国・歴年方式暦】が用いられていたと考えられるので在る。従って、「倭国」と「朝鮮半島・諸国」等との年代に関し、現在的、世界暦(西暦)に合致させようとすれば、其の、計算方式に因っては「1年・誤差」が生じるのが当たり前の事で在る。何故かと言えば、西洋人(東方見聞録に関連)が極東に進出した事を以て、【紀元前】的な暦の計算方式を開発したので在って、其の、計算方式を良く考えもせず、【干支】を中国の暦年(其の最初の人は「那珂通…『支那通史』」かも?)に当て嵌めようとしたからで在る。

【注正月設定方式の違い】(当時の倭国は立春を正月としていた…自説)かと私は考えます。

→好太王碑】…
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【注①(前略す)…而還百残新羅舊是属民…由来朝献而倭以辛卯年(391年と解釈されている)来渡海破百残□□□羅以為民以六年丙申王躬率水軍討科…(後略す)」。


→正月・設定方式】…
及び【鐵(鉄)の技術的ルーツに付いて
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【注②】【日・干支】は、【殷(商)】の時代に於ける「占い的な日数」が重要視されていて、其の重要視された、日、月の数値計算に用いられたのが【日・干支】の文字(甲骨文字)で在った。然るに、其の数値方式は【十進法】で在る。其の事が証明されたのは、近年、乃ち、【甲骨文字】(明治33年→1899年に王懿栄氏が【龍骨文】を発見する)が発見された事に因って解き明かされたからで在って、其れ以前は、其の証明的文書は存在しなかった。従って、古代中国の暦的数値は「十進法」が基本で在ったと言う事です。然し、我が国、乃ち、「缺史八代」(崇神天皇等の時代)と称される、其の歴年史は、『秀眞伝…ホツマツタヱ』文献に詳細に記されていている如く、其の歴史を刻む暦に在っては、【
基本6進法→60進法に通ず】で在った。此の【6進法】、及び【60進法】の方式は「シュメール」(メソポタミア文明)等の西域方面に其の文化の紀元は始まっていて、殆どの中国文化は、其の西域の文化の東進に因ってもたらされたもので在った。従って、【殷(商)】時代の「絵文字・記号」、及び、「銅文明」も、然りで在る。

「日本国家・建国」に関し、其の【倭・文化】に於ける、基の、「日本独自的文化」、乃ち…《【カネ)・の製法技術】(古字→)》…及び…《【言語文字神名字】》…に至っては、当時(紀元前後頃の時代)としては最先端的文明を有していた「地中海沿岸・文明諸国」の文化、乃ち、先進的西域圏文化が、中国大陸文化は経由せず、直接…《ダマスカス契約宗団Qumran Sect》…の「極東移動」(
クムラン秘技宗団)に因って、此の、我が日本列島に持ち込まれたので在った。従って、「ヒッタイト」紀元の【鉄】のルーツ的経由、つまり、「テツ」と言う言語が、つまり、其の呼称「ティン」が物(鉄)と共に移動して来た中国とは、又、違っていて、我が国、即ち、【元始・ヤマト国家】は、【クムラン・秘技宗団】が直接、此の、極東の島に、其の「テイン(鉄)の加工技術」を持ち込んだので在った。従って、我が国の古代期に於いては、「テツ」と言う呼称は用いられ無かったので在る。つまり、我が国に於ける其の呼称は、「テツ」とは言わず…《「我が国独自的呼称」→【カネ】(古字)》…と称したので在った。従って、後年に於いて完成に至った【日本刀】(研ぎの技術も重要で在る)の制作技術は、其の源を正せば、【古代ダマスカス製法】に言う「テツの技法」(鍛鉄の技法)が直接的に我が国に伝えられていた事の証明で在ると私は考える次第で在る。


 以上の記事は、「2014年4月2日(水曜)」に、【誤字・脱字】を修正し、其の間の文書に至っては、必要と思った部分に対しては多少の【追記】をいたしました。


 此の文書の表題に言う【暦年的→紀年】に在っては、西暦元年(1年)と言う考え方が定着したのは、六世紀に此の暦年がローマの暦年に用いられるも、尚、それから、何年も経てから徐々に定着していったので在って、従って、私は此処の文書の表題に於いては、【西暦・起元】(起元では無い)と言う表記を用いた次第で在りました…(2014/4/2/水曜)…新しい「ノート型パソコン」に切り替えて…