【日本国・開闢物語】 | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…【倭姫命世記】と【メシア来臨・起点年】関連数値(此のブログ・最初の標題

『秀真伝』(ホツマツタヱ)文書は【聖書】である( 2012-10-02 17:04:11 erusaremu464の投稿記事)と記している「179万2470」(モモナソコヨロフチヨモモナソ元初ヤマトコトバ訳言語)の数値は、『神道五部書倭姫命世 にも記されている

…『国史大系第七巻』(先代舊事本紀/神道五部書)中の【倭姫命世記】(神道五部書)最後に記載されている文書によると(次に記す)

…「(前文略す)…そもそも倭姫命世記といふ書は、北畠准后(ジュウゴウ…親房の意)の、元々、集行忠神主(度会行忠)の神名秘書伊勢二所太神宮神名秘書)なとに、ふるくより、引載られたと、後世には、たえて、つたはらぬ、かこ、と、なりにたりしを、めつらかに、保可あかた主の家(県主)に、もちつたへられたることの、世にあらはれて、ねもころに、人々のこふには、いなみもえやらす、みつから寫して、おくられたりしを、はしめにて、つきつきにうつし、傳へつゝ、世のなかには、ひろこりたるものにて、まことに、この古本こそは、今の世にありと、ある本ともの親ともおやとたゝへつへき、もとつ本にはありけれ、おのれ年ころ、此記をあまた、挍へあはせたりけるに、いふかしきふしとも多かりしを、今、この古本をみれは、朱をもて、かき入たる文の、流布の本には、はやう、本文のことくになりたるや、うつし傳ふる人々のこゝろこゝろに、かき改めたる文字や、なにや、くれやと、寫しひかめたりけることの、さたかに、知られて、かの、いふかしかりし、ふしふしも、おほかたは、思ひはるけにたるか、いとうれしくて、なほ、後々に、よみ考へむ、たよりともせむとかくしも寫しをへつるは、安政(1299~1301)の、三とせ(3年…1301年)、ふつき(7月)の、廿日あまり、ひと(1)ひの、日(安政3年7月21日)、かくいふは、ちとせ(千年…13011000=A,D,301年)のゝちの、今のよに、ふること、しのふ」……等と記述されている。それで、その【日ノ本・カミ代物語】の歴年数値を下記に記す。

カミ代・歴年数値」(倭姫命世記=神道五部書を次に記す


 治天下30一万八千五百卌40三年31万8543年)。是時天地未遠故以天柱擧於天上焉 天津彦ゝ火瓊ゝ杵尊。…瓊々杵尊→「天忍穂耳尊太子(次男)也」。「長男はホノアカリ尊」。
   

☆ 治天下六十三万七千八百九十二年63万7892年) 彦火ゝ出見尊の尊

☆ 治天下八十三万六千卌(40二年83万6042年 彦波瀲武鸕鸕草葺不合尊
 
※「神日本磐余彦天皇…暉多歴年所自天祖降跡以逮于今一百七十九万二千四百七十餘歳」(179万2470年)…此の数値は『日本書紀』にも記載有り。

…《上記・神代歴年数値179萬2477年)は磐余彦の東征年の【+7年】が加算された数値》…《尚・【逸書日本紀】の数値(179萬2456年)と記す。これは[倭姫命世記]より-14年7×2=14年)少ない》…しかし【倭姫命世記】の最終数値は、『日本書紀』の数値(179萬2470年)と同じ数値である。 


…『世界大百科事典』によると…A,D,1285年(弘安8)に著した『伊勢二所太神宮神名秘書』(1巻)は,『神道五部書を中心とする初期の伊勢神道の所説を明確にしたものとして,のちの神道家たちに大きな影響を与え,A,D,1299年(正安1)ころにまとめられた「古老口実(くじつ)伝』(1巻)は,神宮のさまざまな問題についての度会氏の家伝をまとめたものとして,重要な書である。そのほか,明確な証拠はないが,行忠の手になったものとみられる神道書は少なくない…と記されている。

…我が国の、戦後1951年9月8日調印1952年4月28日に正式的戦争が終結す)に至っては、戦前迄、即ち、「江戸後期の国学を引き継ぐ文献史学者」達は、アメリカの進駐軍(GHQ)に因る【軍国主義者等の公職追放指令】によって排除された。従って、以後、戦前に於ける我が国の優秀な古代史関連に於ける文献史学者達は皆無的状況に陥った。従って、後に残った低級な文献史学者達が後を引き継いだ事をによって、現在の文献史学者達による我が国の古代史関連の学問は、全く、その体を成し得ていない状況である。

…戦後…松本義之助氏の尽力に因って『秀眞伝』(ホツマツタヱ)文章が再発見
(昭和41年・1966年)されたが、戦後の低級な文献史学者達は再発の『秀真伝』文書に対し、何の手だてもする術を知らず、唯、無視をを決め込むばかりで、その状態が現状迄に至っても続いている。ちなみに、現在(戦後以降)の国学とは、「国語学」であって、「日本の古代歴史学の意ではない」(国語学者・小松英夫氏の著書に記す)等と記している。そして、「奈良時代以降の言語は全く解らない」等とも記している。つまり、今の我が日本国には【日本建国史学】等と言う学問は存在しないと言う事であり、早い話が…「奈良時代(元明700~光仁800年頃迄)以前の言語に関しては、全く解らない」(国語学者・説)と言うのが現状である。

…【日本国家・建国史学】…に言う【日本学】については、「在野の研究家に因る研究方式」が、遙かに先駆者と成っている。それは『日本書紀』に記す秘儀数値に対し、現在、我が国の文献史学者達は何の説明も出来ないのが現状だからである。つまり、『日本書紀』に記す神日本磐余彦(後の神武天皇)の【長髄彦・討伐物語】に記す「179万2470年」の意味について、現在の文献史学者達は何の答えも無く、解明する努力もせず、唯、戦前の「津田左右吉・説」以外、何も持ち得ていません。

…【缺(欠)史八代説】とは、
津田左右吉(歴史学者/1873年1961年)説(神武天皇と崇神天皇の間は存在しない説)である。又は「崇神天皇垂仁天皇景行天皇成務天皇仲哀天皇神功皇后)の存在も疑問視し【欠史十三代説】も主張していた。この説を以て津田は不敬罪(戦前)に当たるとして有罪判決を受ける。その後の戦後(第二次大戦後)にあっては、この津田説(缺史八代・説)が、日本の古代史学の主流となり現在に至っている。

つまり、現在における【缺史八代】は不要の長物でしかない。この説を未だに棄てきれないから、我が国の創建時においても日本固有文字は無かったとする説にしがみつくばかりである。その典型的な事は、『日本書紀』の紀年は、嘘の紀年であって、『書紀』の体裁を整える為の偽りの数値年と決めつけ、歴史的紀年を書いていない『古事記』(小説的文書である)こそが最も本当らしいとする『古事記』信奉が戦後にあっても支流を示していた。しかし、戦後の発展期あっては、高層建築時代と成る。その基礎工事での地中深く堀り下げる作業の中で、紀年を記した遺物」が出土した。この時の考古学の発表では…「『日本書紀』の紀年数値は正しかった」と発表された。従ってこれ以降、『日本書紀』が歴史書として見直されるに至り、現在に至っている。従って、現在の我が国には「古代史瀬名文の文献史学者不在時代」と言っても過言でありません。

…下記に【追記】(平成26年=2014/10/11/土曜)…

…【開闢神話】に始まる『日本神話』は、紀元後(3~4世紀頃)に於ける創作物語で在る。其の意図する処は、【アダム~ノア】迄の歴年数値を、【メシア来臨・起点年】世界年3942年西暦1年に当る)数値に繋げるのが目的で在り、且つ、極東の島に於ける【ヤマト(日本)建国神話・歴年数値】300萬年ヨベル年に関連する)との、其の双方の歴年数値の合体地点を以て、【ヒノモト(日本)建国起点年】と成す計画(設計図的原案)に基付くもので在った。従って、東征起点に言う【179萬2470年】とは、其の双方の歴年数値との合体を仲介する役目を担っていたので在る。然るに、【神武天皇・即位元年】(世界年3942年)~【伊勢神宮・遷宮年】(垂仁26年)迄は【ダビデ】に基付く数値年を以て、尚、予め計算された通りに設定された【スメラミコト歴年数値】(神武天皇紀~景行天皇紀迄)を以て、『秀真伝』(ホツマツタヱ)文書は終っているので在った。然るに、架空的【オシロワケ】(後の景行天皇天皇)迄の在位通年歴数値、即ち【秘儀数値790年は、極東の列島(現在に言う日本列島)在っては遥か西方に位置する、古代イスラエル(ユダヤ民族の地)に於ける【クムラン】Qumran)の地域で以て、【メシア来臨】を待ち望んでいた時代(前1世紀頃)、既に、計画された数値年の範疇に在ったので在る。

此の続きは後日と致します

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