[真実探究… 伊勢神宮式年遷宮]の起元 | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 …我が国最古の歴史書とされる[古事記](偽書扱い)は、公的な国史(歴史)文書では有りませんので、私は、『古事記』の内容等は取り入れておりません。

  …我が国の最古の国史書とされる『現存(写本伝承)・日本書紀』とは、【逸書・日本紀(ギ)】が改竄された文書で有ると私は定義致します。

 …而るに、改竄の根拠を知りたければ[二中歴](『史籍集覧』第二十三冊目』)に記載されている[元号]、乃ち、【朱鳥六年】の存在(『日本書紀』は「朱鳥・元年」で終わっている)が、国宝に指定されている『元暦1184年校本萬葉集』に記載されている事等と、『日本書紀』の内容を考察すれば、『日本書紀』の「継体天皇条(紀)」に記載されている「仏教伝来の謎解き」も可能となります。

 …又、『日本書紀』の編纂に関せば、[物部一族]と、[中臣御食子](天児屋根に始まる春日氏族のトップクラスの位置にいた氏族)が、蘇我馬子(用明天皇の時とされる)に亡ぼされた後、蘇我氏側は、失われた歴史書等を保持する目的から、物部氏族側が有した文書に匹敵する文書の作成に着手した。其れは、『秀眞伝』(ホツマツタヱ)文章に記されている【フルゴトフミ(三輪…大物主家伝承文書)】(現存写本伝承古事記とは違う別文章の事です)を、秦河勝が、【アワ宮】(情報の収集と考えられる)から探し出し、【伊雑宮文書現在・吾道家文書として継承されている)】を、[伊雑宮]から提出させ、六家(吾道物部忌部卜部出雲三輪)の文書等とを校合して作成された文書(是我日本中津國之大經也)が、後に言う…『先代旧事本紀大成経72巻本』で有ります。

 …[壬申の乱]以降(天武天皇・持統皇后称制)、更に、其の大物主家伝承の【フルゴトフミ】(「是我日本中津國之大經也72巻本より抜粋)等の文書が編纂され、[元正天皇]に奏上と為すのが、『続・日本紀』に記載された『日本書紀』で有るとされますが、其れは間違いで有ります。つまり、「養老四年(元正天皇期・720年)・奏上」の文章は…【逸書日本紀720年本)】で有る。

 …従って、今に言う、『現存写本伝承・日本書紀』は…「初本的【逸書日本紀)】…では無く、別本であった」と、私は考えます。つまり…[幾何学的形状文字」(秀眞文字)で全文が記されていたとされる『秀眞伝』文書(原典仮字日本紀?と私は考える)や、其の他の神代文字文書等が、[欽明天皇・紀]に因れば…「神代文字用神代賦字が漢字に書き替えられた」…等の事が記されています。因みに、『日本書紀』以前の文書内容とされる『72巻本大成経・序』に因れば…「(中略)…用神代賦字附倭訓於厥右與之而使韓人知倭聲、…(後略)」等と記されていて、神代文字に倭訓(漢字)が付された事が記されています。

 …其の漢字文書の1つが、「アワ宮文書(秦河勝が探し出した文書)」と考えられます。然るに、其の文書の最初の文字とは、小野妹子が枚岡宮に請うて提出させた「土笥文字」(祠社鳴動神形光丸太占形状か?)奇音十個神代跡…)で有りました。

 …先に記(私のblog)した、【の哥文字】とは、『秀眞伝』 文章を構成する【幾何学的形状文字】の事で有ります。従って、我が国最古の歴史書、及び、国史的文章と言えば、『現存…日本書紀』(写本伝承)では無く、『秀眞伝』文書 こそが、我が国最古の歴史書で有ると言っても過言では有りません。然るに、江戸後期の平田篤胤(国学者)が、[神代文字]の収集を行っていた当時は、未だ、幻の文書(其れ以前既に溥泉が其の文書の研究を行っていた。…現在、京都の龍谷大学が、其の文書を所蔵す)で有ったが、然し、戦後(昭和41年)に於いて、[松本義之助氏]が東京(神田)の古書店で、其の文書の1部分を発見(再発見)し、其の後、全文書(写本)が発見され、以後、『復刻版ホツマツタヱ』(著者松本義之助)文書]が出版されました。

 …[ホツマクニ]と成す、其の国名の初出は、現在、「国史大系書『日本書紀』」として発行されている文書の、「神武天皇31年条秀眞伝・トシサミト28辛卯年+3=トシキシヱ31甲午年に記載されています。

 …然るに、其の国史大系書の「神武31年条」を見れば… 「卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登掖上嗛間丘、而廻望國状曰、妍(ケン)哉乎國之獲挨。雖(スイ)内木綿之眞迮(サク)國、猶如蜻蛉臀呫爲。由是始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此國曰、日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀真國。(此云袍圖莽句爾)復大巳貴大神目此曰、玉牆(垣)内國。及至饒速日命乗天磐船而翔行太虚也睨是郷而降此、故因目此、曰虚空見日本國挨。」…と、記載されております。

 …此処(上記)に記す…【袍図莽句爾(ホツマクニ・秀眞國)】…とは、乃ち、[神代文字・文書]と称される、其の、『秀眞伝』文章に言う、「ホツマナル秀真成)」の意で有ります。従って、漢字文献に因る、「ホツマ秀眞の初出」は、『現存・日本書紀』が初出で有る事、然りで有る。因みに、[袍図莽句爾(秀真国)]の創建地は、現在に言う、関東(常陸)、及び、東北(勿来)方面の地域で有りました。


…【追記】(2023/6/23/日曜日)…
 「伊勢神宮式年遷宮起元」(筆者・自説)

…『日本書紀』の「垂仁天皇条・本文25年(477年)」(一説?ホツマ説・垂仁天皇26年を、「伊勢神宮建立」と記す)を基点としていますが、「式年遷宮に関する数値基点」は、【秘儀的ダビデDVD数値】(雄略天皇時代)に基づいております。…然るに、【式年遷宮】は【19年毎】(筆者・自説)に実行されていて、「持統天皇・紀」に言う、【式年遷宮】は、其れ以前からの宮中行事で有ったのを、つまり、【近江王家トヨウケ)】に於ける宮中的伝統行事であったのを、壬申の乱に勝利した[天武天皇(持統天皇が継承)]は、単に、其の【式年遷宮・行事】を継承したにすぎません。然して、現在、【式年遷宮】は【20年毎】と為すが、元来の【式年遷宮】は…【19年毎】…で有ったと言う事で有ります。尚、明治時代になって、「宮中の伝統的神道行事が廃止」されたりした事等に関連してか、其れ以降の、【式年遷宮】の年数間隔が、正確に守られ無くなっているようで有ります。