ライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』。ゴダール映画の原作。原作の主人公は映画より気狂いピエロかも | 書物と音盤 批評耽奇漫録

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ライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』、


ジャン=リュック・ゴダールが60年代に映画化したヌーベルヴァーグ映画の原作本です。


原作の初版本が今では入手困難な本らしく、それで今まで邦訳がなかったのが、ついに本邦初訳として出版されたものです。


原作はアメリカのノワール小説で、ライオネル・ホワイトと言えばスタンリー・キューブリックのノワール映画「現金に体を張れ」の原作者としても有名です。(原作題名「逃走と死と」)


ライオネル・ホワイトの小説は日本であんまり翻訳されていないのですが、海外では犯罪者のチーム=ケイパーを描いたケイパー・ノベルの第一人者として有名なようです。


「現金に体を張れ」の原作はその代表的な一つと言えるでしょうね。


ゴダールの映画の方は、この小説の物語を換骨奪胎というか脱却して、あくまで徹底してゴダール映画的なエクリチュールとして描きあげたようなものなので、原作との関連事項はいくつか確認できますが、この小説のノワール的な物語展開みたいなものはあの映画にはあんまり出てないんですけどね。


でもあのゴダールの映画はかなり鮮烈な面白さの映画で、自分が観たのは映画が作られた60年代ではなく80年代に入ってからのリバイバル上映でしたが、それでもかなり新鮮な、他にはない独特の映画だなと思った記憶があり、それから何回観直してもそういう新鮮な印象を受けますね。


だからこの原作と映画の間にはちょっと距離があるような気もするんですが、それでも原作の原題はobsessionで、直訳すると"妄執"なんですよね。


そのobsession=妄執という点では、原作と映画はちゃんと繋がってるなと思いますね。


この原作も主人公の男のobsession=妄執を描いたものですが、ゴダールの映画の方もどこか映画自体が映画へのobsession=映画への妄執そのものとして描かれているようだったし、まさに主役のジャン=ポール・ベルモンドのobsession=妄執を描いたような映画だったからです。


つまりゴダールはこの小説の物語性だとかノワール的なエンタメ性みたいな事は一切省いて、小説の根本的な本質のみを剥き出しにして自分流に映画化したということなのかもしれませんね。


しかし、それでもやはり、原作と映画では少し違いがあると思います。


所謂、これは、17歳の少女アリーという悪女=ファムファタールに惑わされ、それまでの普通の日常を脱して逃亡生活を送り、ひたすら犯罪者として堕ちていく男を描いたノワール小説ですが、ゴダールの映画の方はベルモンドとアンナ・カリーナの愛の妄執が不思議なポップアート&映画的エクリチュールへの逃亡譚を形成しているようでしたが、この原作の主人公のコンラッド・マッデンは、このファムファタールに惹きつけられてどんどん堕ちていくくせに、この悪女に自分が愛されてなどおらず、ただ利用されているだけだということをずっと認識してるんですよね。


愛の妄執に囚われて逃亡を繰り返し、ポップアート&映画的エクリチュールの中に逃避していく男なのではなく、17歳の少女のファムファタールに出会ってしまったがために日常生活から完全に脱却することにはなるが、それ以降この悪女にずっと自分は利用され騙されいいように扱われていると認識しながら、それでもこのファムファタールに溺れる事だけが自分の進むべき道、そのobsession=妄執の道をひたすら進み堕ちていくしかないと思っているような男の話なんですね。


だから最後にコンラッドは、まるで自分の妄執自体に決着をつけるような、ある異様な行動をとって小説は終わります。


ゴダール映画の方は愛の妄執がベルモンドにもアンナ・カリーナにも感じられるロマンティックな映画に見えましたが、こちらにはそういうものはありません。


あくまで現実の犯罪者が逃亡を重ね、自分がそんな堕落の道を歩むきっかけとなったファムファタールに愛されてもいなければ自分の方も愛してもいない、しかも相手に利用されているだけと十分認識しながらも、狂った妄執の道を堕ちていくしかない姿が描かれているので、映画のタイトルが「気狂いピエロ」で、原作は「obsession」ですけど、ひょっとしたらこの原作のコンラッド・マッデン(マッデンは発狂させるの意)の方が"気狂いピエロ"そのものなようにも読めますね。


犯罪小説としても、"気狂いピエロのobsession=妄執の物語"としても面白く読める貴重な作品です。