宮内悠介『超動く家にて 宮内悠介短編集』☆やや食い足らないが、短編「法則」が秀逸なバカSF短編集 | 書物と音盤 批評耽奇漫録

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宮内悠介『超動く家にて  宮内悠介短編集』☆

 

吉川英治文学新人賞や三島由紀夫賞受賞の作家・宮内悠介の初自選短編集☆


 

本のコピーには「俊英の知られざるもうひとつの顔を目撃せよ!」とあり、

 

宮内氏自身も「このままでは、洒落や冗談の通じないやつだと思われてしまわないだろうか」「深刻に、ぼくはくだらない話を書く必要に迫られていた」ということで書かれた短編が所収だそうで、だからまあ、今回はシリアスな作風ではなく、確かに洒落や冗談に満ちたSF系バカ短編集という風に読めますね☆

 

先日、出版社の主催で、この中の全16作の短編の人気投票をやってましたが、自分は頭一つ抜けてると思える、ヴァン・ダインの二十則が支配する世界で殺人を行なおうとする男の話「法則」を挙げました☆

 

理由は、こちらがミステリ好き故もあるけど、ラストの伏線回収に到るまで、ヴァン・ダインの二十則の”法則”縛りが伏線的に貫徹し、完成度が高いと思ったからです☆

 

他には、ミステリ展開のフリーハンド実験作のような「超動く家にて」、

レガシーの哀愁漂う「エターナル・レガシー」、

本格ミステリ批評への諷刺が効いてる「エラリー・クイーン数」、

などが良かったですな☆

 

しかし正直言って、16作もある中で、なんとか出色に思えたのはそれぐらいで、残りの12作は、なんだか、まあまあな出来のSF短編という感じでしたな☆

 

たぶんこれは奇想SF短編集ということなんだろうけど、上記の4作以外は、奇想SFという意味でならちょっと浅いというか軽いというかね☆

 

謂わば、ジョン・スラディックやシオドア・スタージョンほどの深い感慨深さやインパクトはなく、円城塔ほどの思想家でも発明家でもない、という印象なんですな☆

 

まあ、著者が自由に発想飛ばして、楽しく書いてるんだろうなという気がするので、その手のSFバカ小説集に、本当はあんまりゴタゴタ言いたくないんだけどね☆

 

でも奇想SFというのは、やはり奇想を競う(くだらない駄洒落言ってるつもり全然ないよw)ものであり、そういう意味では、まあまあな短編が多くて、面白い短編もあるけど、イマイチ食い足らないなというのが正直な実感ですな☆

 

ただ、別に「宮内悠介奇想短編集」と銘打たれているわけではなく、「自選短編集」とあるだけだし、元々が、ネタ小説を集めたSFバカ短編小説集というコンセプトらしいので、あくまで洒落や冗談小説として書かれたネタ小説的な短編の集積という意味でなら、ちゃんとどれもそうなってますけどね☆

 

分厚い雑誌「トランジスタ技術」から広告部分などを取って圧縮することを競う世界を描いた「トランジスタ技術の圧縮」は、マンガチックなお話としてはクスクス笑えます☆


「文学部のこと」も、昨今必要なしとよく言われるようになった大学・文学部エレジーをコミカルに語った感じ☆


「アニマとエーファ」は、AI作家が登場以降の時代のSF的妄想という感じ☆


軽いショートショート的な「今日泥棒」、「夜間飛行」、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、


この中では、キャラ設定とかが妙にラノベチックな「弥生の鯨」、



車に乗り込んだ数人の道中記が、わりと巧い短編としてまとまる「ゲーマーズ・ゴースト」、


まさに冗談小説という感じの「犬か猫か?」、


ヴォネガットというよりはバカリズムのネタっぽい「かぎ括弧のようなもの」、


初期村上春樹&ウイリアム・ギブソンのハイブリッド「クローム再襲撃」、


宇宙空間にて、昔の野球盤で死闘を繰り広げる「星間野球」、

などなどが所収☆

 

「星間野球」なんて、子供の頃、来る日も来る日もゲームと言えば野球盤ばっかりやってた自分には愛着ある短編なんですけど、でも野球盤にはもっと無茶苦茶なというか、イレギュラーな使い方があって、子供の頃そういうのをかなり試した身としては、普通な使い方ばかりで、そこがちょっと惜しいんですな☆

 

ここでのイレギュラーな使い方は単なる反則ばっかりで、野球盤の、”反則じゃないけどイレギュラーな使い方”の面白さがあんまり出てこないのが残念☆

 

でもまあ、ちょっと食い足らないとは言え、SFバカ短編ばかりのネタ小説集としては、それなりに面白いですな☆ 

 

著者自らによる、作品解説も付いてます☆

 

いくつかの短編には、何年か前には進歩的だとか、最先端テクノロジーだと思われていたのに、今や忘れ去られている時代錯誤な存在が、今の最先端テクノロジーの世界で、どこか哀愁に満ちた存在感を見せるお話が多いなという印象を受けました☆

 

別にそれで変なノスタルジーに浸るわけでもなく、そうした時代錯誤な存在が、”今も生きている”存在性を示すことで、絶妙な哀愁を漂わせておりまして、そこに小説としての味があったりしますな☆