『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。』(ヨハネによる福音書/ 15章 03節)さて、イエス様の話した言葉は、現在ではまさに聖書と言えるでしょう。聖書を読んで主を信じればすでに清いのです。しかし、そでだけではダメなようです。
『わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。』(ヨハネによる福音書/ 15章 04節)
すでに清くなっている人にこの御言葉が話されます。聖書を読んでイエス様を信じるだけで、すでに清いのですが、イエス様に繋がっているとは言えず。実を結ぶことはできないようです。では主に繋がるとはどういうことでしょうか。
それは聖霊によるのです。少し戻りますが、わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」』(ヨハネによる福音書/ 14章 21節)
『イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。』(ヨハネによる福音書/ 14章 23節)以上がつながっている状態でしょう。
弟子たちはイエス様を愛していましたので、この条件は満たされているかもしれません。しかし、重要なのは『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』(ヨハネによる福音書/ 14章 12節)
イエス様はこの時点では、父のもとに行っていないことです。故にまだこの状態ではないのです。『わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(フィリピの信徒への手紙/ 03章 09節)
使徒パウロは、聖霊によりイエス様と繋がっていた人の代表とも言えるでしょう。律法から生じる自分の義とは、ユダヤの律法を守ることを拠り所とする正義だけではなく、文字による掟や自分で判断したすべての正義や価値観が該当します。
『シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。』(ヨハネによる福音書/ 18章 10節)これはイエス様を守るという自己義である正義によるペトロの行動かと思います。
故に『イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」』(ヨハネによる福音書/ 18章 11節)このように言われてしまいます。これが、繋がっていない状態で、ペトロはこのまま突っ走っていれば必ず滅び(投げ捨てられ)ていたでしょう。
この時点(聖霊降臨前)で、ペトロは清いのですが、神とは繋がっていないのです。実を結ぶことはできなかったのです。『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。』(ヨハネによる福音書/ 15章 05~06節)アーメン 次回に続きます。
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