
『恋ヶ窪』のあらすじを読まれてどう思われましたでしょう。^^
、、二人の恋の行方も気になりますね。。。
北山と汐見洋子は、既婚者です。
たとえ洋子が、夫と10年間、別居していても。
それが「はじめから一線を越えない覚悟の恋」だったのです。
しかし、二人の気持ちは逢えば逢うほど、近づけば近づくほどふくらむものです。
それ以上、進んではいけないと心に決めていても、、
それは切ないです。
切ないものです。。
北山は、自分にこういいきかせます。
「洋子に触れたい。しかし、それを実行すれば、この愉しい時間はその瞬間に終止符をうつだろう。
自制心こそが、愉しい時間をまた次にもつなぐことが出来る鍵なのだ。
それに、妻と二人の波風のない生活が毀損するような原因をつくる気はないのだし、
洋子との丁度良い距離を残して接する事が最良の選択だとわかっている。
それが大人としての片思いのたのしみ。。なのだ。」
と、、しかし、北山の恋はそれで本当にとどまったでしょうか。。
。。自分の思いを自制していたでしょうか。
彼は、次第に妻に嘘をつくようになります。
嘘をつけば、もうひとつ嘘をつくことになります。
北山が洋子に逢うために妻につく嘘。。
けれど。。。
意外にも、別れは洋子から突然告げられます。
愛とか、恋とかという自分を束縛するものから一日も早く卒業して、若いお婆ちゃんになり
孫を相手に、うきうき暮らしていくと。。
脱・恋宣言です。
その洋子の思いは分かるような気がします。
「恋」とは、「自分の絶対が脅かされること」で、
「恋の相手とは安全な場所にいる自分を脅かしに来るもの」だからです。(笑)
『忍ぶ恋こそ恋の至極なり』
。。。でもね。
最後の別れの北山の行為が、ちょっと粋な感じがしました。^^
「それじゃ、ここで。。」と手を差し伸べた洋子の手を握り、北山は彼女の頬にキスをします。
自制心こそが次につなぐ事のできる鍵。。と自ら片思いのたのしみを見出していましたが、
洋子にふれたその瞬間で終わりになるということを切り札にしたのです。
。。その後、ふたりは一度も会う事はありませんでした。
しかし、北山は、ある発見をして思い出します。
洋子だったら、この発見をさぞ喜んでくれただろう。。と。
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北山と汐見洋子の二人が惹かれ合うのはごく自然な事だったでしょう。。。。
互いの趣味と関心事は、江戸文芸の文人です。
大田南畝と植木玉厓。
この二人の狂歌人、南畝と玉厓は同時代を生きそして交流もありました。
南畝は玉厓の詩集の狂詩に評をつけ、玉厓は南畝が狂歌で人気があるばかりでなく
社会的にも地位があるということでとても敬愛していました。
その玉厓が一年間京都で二条城在番という役目を仰せつかって単身赴任し
江戸へ帰ってきた時に、南畝が玉厓にある狂詩を贈ります。
「歌舞伎役者の澤村田之助が病気し全快して芝居に復帰しているが、
我が朝顔はしばらく開花しそうにない。。」というものです。
玉厓を澤村田之助に見立てています。
澤村田之助という役者は美貌の女形でしたから、玉厓もなかなかのハンサムだったのでしょう。
その田之助は「朝顔日記」の朝顔役があたり役だったので、病気が全快して、
また朝顔を演じ、(朝顔という女性は目が見えなかったが、好きな男性に逢ったことで
目が見えるようになった)目が開いてめでたいが、我が庭の朝顔は開いていない。とうたったのです。
ところが、その狂詩で北山はある事に気が付ついたのです。。
~~ 長くなりましたので、この発見は次回に。。^^