
(『白洲正子自伝』新潮文庫)
それ以来、白洲正子という人物にとても興味が湧き、自伝を読みました。
まず、冒頭から、驚愕するような先祖の血を見せつけられ、圧倒されてしまいました。
祖父・樺山資紀(かばやま すけのり)
幕末の京都・祇園 石畳下で薩摩藩藩士・指宿藤次郎(いぶすき)という侍が見廻組に殺された。 指宿は薩摩示現流(じげんりゅう)の剣士であり、5人の敵を倒したが、 下駄の鼻緒が切れて、転倒し無念の最期を遂げた。 その時、前田某という若侍が同行していたが、彼はいち早く遁走(とんそう)した。 その葬儀の場に橋口覚之進という気性の激しい下級藩士がいて、焼香の時が来ても、 棺の蓋を覆わず、指宿の死顔を灯火の元にさらしていた。 彼は、参列者の中から前田を呼んで「お前が一番焼香じゃ。さきィ拝め」と叫ぶ。 前田は、おそるおそる進み出て香を手向け、指宿の屍にうなだれた。 その時、橋口は腰刀を抜き、一刀のもとに首を斬った。 首は、ひとたまりもなく棺の中に落ちた。 「これでよか。蓋をせい。」
その後のなんともいえぬ静寂な空気を感じ取れたと正子は書いています。
そこに登場する橋口覚之進こそが、正子の祖父の若き日の姿です。
なんとも、野蛮な話ですが、そうしなければならない理由というのがあったのです。
薩摩藩には「郷中」(ごうちゅう)という区域々に備えられた青少年の機関がありました。
藩士の子は8歳にして郷中に加わり、20歳まで激しく文武の道を体得させられたのです。
随分前に放映されたNHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」を観たかたなら、
彼らがどのような教育を受けたか想像できると思います。
彼らがどのような教育を受けたか想像できると思います。
武士道に背いて「惰弱」に流れるのはもっとも恥ずべき行為であると
教えられてきたのですから、その掟に反した前田は、「死」の覚悟で
葬儀の場に現れたのでしょう。
教えられてきたのですから、その掟に反した前田は、「死」の覚悟で
葬儀の場に現れたのでしょう。
橋口(正子の祖父)は、指宿の朋友(ほうゆう)でもあったわけですから、
前田を殺さなければならない立場だったのです。。。。
前田を殺さなければならない立場だったのです。。。。
(*示現流~実戦向きの武術である。
正統な示現流の稽古は、立木が相手である。
これを敵に見立てる。
稽古には竹刀も木刀も使わない。
堅くて重い樫(カシ)かユスの木を手頃な長さにして使う。
この真剣と同じか少し重い木刀で、腹の底から出す激しい気合いとともに
ひたすら立木を打つ。
来る日も来る日も、ひたすら打つ。
示現流には「受け」はなく「攻め」あるのみ。)
正統な示現流の稽古は、立木が相手である。
これを敵に見立てる。
稽古には竹刀も木刀も使わない。
堅くて重い樫(カシ)かユスの木を手頃な長さにして使う。
この真剣と同じか少し重い木刀で、腹の底から出す激しい気合いとともに
ひたすら立木を打つ。
来る日も来る日も、ひたすら打つ。
示現流には「受け」はなく「攻め」あるのみ。)
正子の祖父は、後の日清戦争では海軍指令部長となり、斬り込み隊の先導として
日本刀を抜いて敵兵をなぎ倒したといいます。
日本刀を抜いて敵兵をなぎ倒したといいます。
幕末の伏見田事件で、島津久光の先向けた討手によって殺された倒幕の先鋒
橋口伝蔵の弟でもあります。
橋口伝蔵の弟でもあります。
本の表紙の写真は、その樺山資紀であり、その膝にだかれているのが正子です。
おそらく、その祖父の「力」が正子の体内に宿っているのでしょうね。
おそらく、その祖父の「力」が正子の体内に宿っているのでしょうね。
ただ、正子自身は無自覚と言いながら、ふとした時に突出する薩摩隼人の血が
騒いでいるのが面白いです。
正子自らも、「韋駄天のお正」(いだてんのおまさ)と称しています。^^
騒いでいるのが面白いです。
正子自らも、「韋駄天のお正」(いだてんのおまさ)と称しています。^^
樺山資紀、川村純義という両海軍大将が祖父であり、
信念を有した個性的な両親と視野が広くダンディな伴侶の白洲次郎、
そして政財界や文芸の世界のひとびと。
全てが白洲正子の魅力を引き出すために巡り会ったようなものです。
(若き日の昭和天皇を優しいお兄さんとして付き合っているのはご愛敬ですね)
しかしながら、このような凄すぎるお嬢様環境の中にありながら、
自分を支えてくれた乳母件教育係だった女性を宝物のように感謝しています。
しかしながら、このような凄すぎるお嬢様環境の中にありながら、
自分を支えてくれた乳母件教育係だった女性を宝物のように感謝しています。
文中では、その感謝は感謝というより、空恐ろしいと記され、
一人のひとが自分(正子)だけの為に、一生を捧げてくれたこと、、
その乳母が亡くなった夜、自分の身を八つ裂きにしたい思いに駆られたと書いています。
一人のひとが自分(正子)だけの為に、一生を捧げてくれたこと、、
その乳母が亡くなった夜、自分の身を八つ裂きにしたい思いに駆られたと書いています。
財や家柄に押しつぶされずに自身を自由闊達に維持できたというのは読んでいても痛快でした。
世間は人に様々な肩書きを付けたがるものですが、彼女には全く不要のものです。
白洲正子は白洲正子なのだから。。。
この自伝はひとまず東京オリンピックの年に正子が一人巡礼の旅に出て終ります。
正子54歳の時です。
正子54歳の時です。