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お馴染み、北海道新聞の「朝の食卓」のコラムをご紹介します。
     ~石狩の井上伝蔵~  地方史研究会主宰 鈴木 トミエさん

1884年(明治17年)、埼玉県秩父地方で約1万人の農民が武装蜂起し、敗北した。

この「秩父事件」の指導者の一人、自由党員の井上伝蔵は、

逃亡し、本人不在のまま死刑判決を下された。

「伊藤房次郎」と名前を変えて、石狩に来たのは4年後のことである。

貸下げ地4万8千坪を開拓し、39歳で高浜ミキと再婚。

未入籍のまま5人の子供をもうけた。

石狩青年会の集まりでは「権利の種類」と題して演説。

時には農商務通信嘱託者として町内の農漁業者や商工業者とも交わり、

養子縁組や婚姻届の証人になるなど、町民に信頼されたようだ。

一方で這う区結社に入会し、俳友の小学校長が石狩を去る時、

「友立ていとヾ淋しや雲のくれ」

と詠む風流人でもあった。

石狩の伝蔵には「逃亡者」という暗いイメージは見当たらない。

もっとも1889年に憲法発布の大赦を受けていたのだから、

潜伏する必要はなかったのだ。

石狩を去り、札幌を経て、野付牛(現北見市)に転居。

北見(きたみ)時代には俳句を詠んだ形跡はない。

死の間際、自らの素性を初めて家族に明かした。

石狩では、伊藤房次郎として、もう一つの人生を生きた伝蔵。

人は時折「ああ、人生が二度あれば」と嘆く。

伝蔵はまさにそれを実行した人だった。

~こぼれ話~
井上伝蔵の生家は1947年(昭和22年)に取り壊され、
いまは空き地となりわずかに「井上伝蔵の家」という立看板があるだけである。
また墓地も道路を挟んだ畑のなかにある。

秩父時代の妻コマは、一子フデの子で孫にあたる小林もとが、地元秩父市に住んでいる。

北海道時代の妻高浜ミキは、その三女セツの子の佐藤知行と田中ゆう子が
東京都足立区に住んでいる。

2003年年6月には映画「草の乱」の上映を機会に孫3人が墓参を行っている。

伝蔵は俳句もたしなみ号は柳蛙と号した。
「想いだすことみな悲し秋の暮」などが残されている。

秩父時代の妻コマは浅草の芸者だった。
東京都板橋区の養育院(養老院)で死去している。