日本に戻った娘が、フィリピンの人たちの幸せ観を考察しようとして詰まっている。

幸せというものを哲学的に記したものの殆どに、

フィリピン的な幸せ観がなかった。

 

「ゴミ山の人は幸せと言えるのですか?」と先生

マニラのゴミ山は知らないけど、このあたりのゴミ山なら彼女も良く通った。

だから

「幸せです」

と、娘が答えた、すると驚かれ、それでよいと思っているのか?と指導を受けたらしい。

 

このすれ違いはどうして起こっているのか?

先生にすれば、「幸せなら、そのままで関わらなくて良い」という解釈をされていたようだ。

 

ゴミ山は、ごみ集めに行けばお金が手に入る。

危険な仕事だけど、他に仕事がない人も多い中、

ゴミ山に住める人は、食べる事に困るほどにはなっていない。

第1、彼らがここで幸せだというのだから。

意外にゴミ山から、うちよりも立派な家にトラックを数台持つまで豊かになっている人もいる。

そうまじめに働けば、ゴミはやはり宝の山。

ここでゴミを拾うのも、競争がある。それに勝ち抜いてゴミが拾えるのだから

他より良い暮らしができる。

 

脊損で寝たきりのミデルだって、家が最近全壊した、まだまだ自力で動ける兆しは見えない。

その家族が「この子が生きていて、何とか食べれて、病気がなかったら幸せだよ」という。

家がぶっ壊れても、ワハハと笑える、良かったよ、誰もケガしなくって!!

たまたま、家の中に誰もいない時に

ミデルは外で寝かされていた時に

家は全壊した。

 

でもケガしなかったから、良かった、と感謝できる。

 

今の家も、急ごしらえでまだ屋根がきちんと乗っていない。

(釘が打たれていないのだと、一部はとたんでなくシートのみ)

雨漏りがあっても、

「大変だったよ、ここが漏る、あっちが漏るで」(まだ本格的に雨が降っていないから、大丈夫らしい)

と、笑える気力に満ちている。

 

あることに感謝できる、それを幸せだと思える、

ネガティブにフォーカせずに、与えられているものに感謝する。

 

家族が元気で、ご飯があったら幸せだよって多くの人が答える。

向上心もあるけど、チャンスが極端に少ないから、それ以上なくっても今あるものに感謝できる。

 

 

先進国の幸福観はここの幸福とは種類が違うようだ。

 

幸せだから自立できているではない。

多くが持たないものばかりなので、助け合わないと成り立たない、

助け合って幸せを分け合っている。

全部じゃないけど、理想的な考え方がここにあることは事実です。

 

ひがみや意地悪、損得勘定、差別、階級、虐げられているなど、そんなネガティブも同時進行で存在しているから

簡単ではないんですよね。

 

でも今日、目が覚めてうれしい、ご飯が食べれて良かった、子供たちが病気していない、

「日々、感謝できる事に積極的に感謝する」は学ぶべきことだなといつも感じる。

 

ミデルの褥瘡、かなり乾いてきました。

座った状態でリハビリ進めています。足先が地面にタッチするようになってきています。

また、写真撮ってきます。

ご支援に感謝しております!