

Antoni Placid Guillem Gaudi i Cornet (1852-1926)。
いわずとしれた、スペインを代表する建築家。主にバルセロナで活躍しました。彼は1878年に開催されたパリ万博に、ショーケースを出品しました。ここから、グエルと出会い、彼の成功物語が始まりるわけですが、その馴れ初めはグエルの項目で書くことにします。
建築は曲線を多用し、動植物をモチーフにした造形が多いです。とある文献によると1900年までの前期と1900年以降の後期とでやや作風が異なり、私は前期の作品が好きかな。
ガウディというと、その奇抜なデザインに着目しがちですが、作風が独特なだけではありません。建築学的にも大きな貢献をしたそうで、カテナリーアーチ(懸垂腺)が彼の功績なのだそうです。一般的なアーチは上からの力を左右に分散する構造をしているのですが、左右に分散する力をアーチの延長線上に放散したアーチ、それがカテナリーアーチというわけです。鎖の左右両端を持ってを垂らした形を、上下反転させるとカテナリーアーチが出来上がります。
ガウディはカテナリーアーチが構造学的に安定なことを応用して、サグラダファミリアやコロニアグエル教会堂では逆さ吊り模型(フニクラ)を製作し、建築構造学的に最も合理的な形態、すなわち、構造的に安定な形態を追求したと言われています。兄(1級建築士+α、構造設計が専門らしい)が「サグラダ・ファミリアって、ストッキングを指でつまんで引っ張って、模型を作ったんだっけ?確かそうだったような。」そんなことを言っていましたが、これは間違い。兄貴やばい!笑


Eusebi Güell i Bacigalupi, conde de Güell (1846-1918)。
スペインの新興実業家。バルセロナの南西約30kmに位置する町ガラーフでブドウを栽培し、ワインを醸造していたそうな。彼は1878年パリ万博に出品されたショーケースに目をとめ、その製作者を探しました。こうしてガウディを見出し、それ以降パトロンとしてガウディをバックアップしたそうです。また、ガウディの最大のクライアントであると同時に、芸術をこよなく愛する良く友人だったそうです。










ここからは、我々が実際に訪れたガウディの建築をご紹介。

1882年着工、1883年にガウディが2代目主任建築家に就任し、1926年に亡くなるまで建築に携わりました。初代主任建築家のデザインでは典型的なバロック様式の教会としてデザインされていたようです。これをガウディが改良し、今の形になったそうです。教会建築では、高い天井を作るアーチを支えるために、バットレス(控え壁)やフライングバットレス(飛梁)という構造があるのですが、カテナリー曲線を用いることでこれらの構造をなるべく排除しているようでした。
着工から2010年まではローマから聖堂として認められておらず、司教不在で教会も機能しておらず、ガウディが寄進を集めながら建設を続行させていたそうです。ガウディの最後は市電にひかれて亡くなり、あまりのみすぼらしさに誰もガウディだと分からなかったそうです。悲惨だけど、自分の一生をかけたいほどの事があったこと、それはとても幸せなことだと思います。
ところで、私が一番驚いたのは“本当に建設中”なのだということです。建物の形はそれなりにはっきりしていたので、てっきり概ね完成しているものだと思っていました。生誕のファザードを見上げ、そこから入場し、入場してはじめて、そこが側廊であることに気付きました。かの有名な生誕のファザードと受難のファザードは教会の側面であり、栄光のファザードと呼ばれる本当の正面は全く完成していなかったのです。
尖塔にのぼると、バルセロナ市街を一望しつつ、遠くに真っ青な地中海が見えました。
母は「なんだかピンとこないわねえ。後で見たカテドラルの方がこれぞヨーロッパっていう感じで感激したよ!」なんて言っていました。それは禁句だぞ(笑) 多くの観光客がそう思っていることでしょう。

1890年、グエルはバルセロナから西に約20kmの郊外に繊維工場と労働者のためのコロニーを設立しました。1898年、グエルはガウディに繊維工場で働く労働者のための教会堂建設を依頼しました。ガウディは当初はサグラダ・ファミリアに似た教会を建設する予定でしたが、第一次世界大戦の影響で経済的なダメージを受け、建設は中止されました。地下聖堂の部分を作ったのみで、未完のままです。
私が興味をひかれたのは、ジュゼップ・マリア・ジュジョール(ガウディの助手)によるステンドグラス。窓を開けると蝶が羽ばたいているように見えます。窓としての機能があるのは勿論のこと、美しさも追及する、こういうの好きですね。
教会堂の椅子は、ガウディ自らが設計したそうです。いわゆる、トータルコーディネートってやつですな。建てつけ家具やオリジナル家具が用意されているからこそ、ガウディの曲線を多用した建築が生きてくる、そんな風に感じました。また、無数の曲線がギリギリのところでバランスを取っている、これがガウディの才能なんでしょうね。凡人が同じような事をやろうとしても、こんな調和のとれたデザインはできませんね。
教会堂の他に、赤レンガの建物が並ぶ繊維工場の街並みも素敵です。
半日じっくり見学し、散策して大満足でした。

1900年着工。グエルはバルセロナの北西に位置する15haの土地に住宅都市を作ろうと計画し、60戸の田園型分譲住宅地を売り出しました。しかし、売れたのは2軒、しかも買い手はガウディとグエルだけだったそうです。計画は頓挫し、後に市に寄付されて公園として整備されたそうです。どんまい、グエル!
私達は早起きして8時頃には公園に到着したした。バルセロナの朝は初夏でもかなり冷えましたが、人も少なく、公園を大いに満喫し、ゆっくり2時間ほど散策しました。有名なトカゲのモニュメントも母と2人で独占状態でした♪ちなみに、破砕タイルによるモザイク装飾はコロニア・グエルの窓と同じくジュジョールが手掛けたとのことです。

1886年着工。グエルの別邸として依頼されたましたが、グエルはここを大変気に入り本邸として使用したそうです。まだ曲線を多用しておらず、実用的で住みやすそうな感じがしますね。そして茶色や黒をメインとし、金色をアクセントに用いたた落ち着いた色調。唯一、屋上のきのこの形の煙突はダサいなぁと思います(笑)

1877年に建設された集合住宅を、ガウディが1904年に改築したもの。ゼロからの新築ではなかったために、ガウディは外装とインテリアを考えることの全力投資することができたのかもしれません。デザインの観点におけるガウディの最高傑作とも言われるそうです。海をイメージした家なのでしょう、遊び心がありますね。子供でも楽しめそうです。上下スライド式の窓や、手にぴったりフィットするように設計されたドアノブなど、細部にこだわった事が伺えます。

1905年着工。ガイドブックにはカサ・ミラとして紹介されていましたが、タクシーの運転手さんによると地元の人は『ラ・ペドレラ(石切り場)』と呼ぶそうです。カサ・バトリョと比較すると雰囲気は幾分か大人しく見えます。おそらく、白を基調として色味を抑え、タイル等のデコレーションも最低限にとどめているのが理由だと思います。しかし、曲線のうねりはカサ・バトリョよりダイナミックで、ねちっこくて、動物的で力強い印象を受けます。
現在も入居者募集中とのことですが、けっこう住みづらいのではないでしょうか(笑) 曲線を多用すると無駄なスペースが増えますし、家具を置こうにもなかなか部屋にマッチしないでしょうし、そもそも設計から施工まで非常に手間がかかるでしょうし、色んな意味で非効率的なデザインだと思います。私は直方体の部屋に住みたいぞ。
外観は修復工事夕でしたが、屋上も見学することが出来ます。屋上に並ぶ煙突や排気口は巨神兵の頭のように見えて、かなり怖かったです。

1898年着工。外観のみ見学しました。本当はここでランチ休憩しようと思ったのですが、お店がオープンするまで1時間近くかかるので、街歩きをすることにしました。ガウディらしさ控えめの建物ですね。










バルセロナはおそらく1週間滞在しても飽きない街です。当時のスペインの情勢やガウディの生涯を理解したうえで、彼の建築作品に触れることができたのは貴重な体験でした。冒頭で建築は理屈をこねなくても楽しめると言いましたが、やはり作品の背景を知ると楽しみも深まりますね。